仰木彬政権下、独走するオリックスで星野伸之が常に抱いていた緊張感。「10.19」の悪夢を経て「仰木マジック」は磨かれていった (4ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Kyodo News

――震災があった神戸に、オリックスの優勝が元気を与えましたね。

星野 震災で甚大な被害が出ましたから、お客さんは来ないだろうと思っていました。だから、オープン戦でグリーンスタジアム神戸の一塁側の席が埋まっている光景を見た時は感動しましたよ。

 それからシーズンに入り、序盤は勝率5割ぐらいでチーム状態はよくなかったんですが、首位に立ってからは2位以下を突き放すことができた。ただ、10ゲーム差くらいついても、「気を緩めたら逆転されてしまう」という緊張感は常に持っていました。それこそ、1989年に近鉄が優勝した年は、オリックスが首位を走っていたのにひっくり返されましたから。有利ではあるけど、決して気は抜けないという雰囲気がチームにあったのは、仰木さんの豊富な経験があったからだと思います。

――仰木監督の野球は「仰木マジック」とも称されていましたが、言葉で言い表すとしたら?

星野 「自分が思っていることを貫き通す野球」という感じですね。三原脩さんが近鉄の監督の時にコーチを務めていましたし、三原さんの影響が大きいんじゃないでしょうか。打線の組み方や投手交代のタイミング、守備のシフトなどもそうですし、確率を重視した起用や采配をしていた。相手投手との相性で打順を変えたり、僕が経験したように、あとひとつアウトを取れば勝ち投手になるという場面でも、リスクを回避するためにピッチャーを代えたり......。

 それで選手たちから不満も出るんでしょうけど、「自分は全部受け入れる」という感じでした。チームが勝つために我慢してくれ、というスタンスだったんじゃないかなと思います。

(連載9:阪神・岡田彰布監督の「魔法の言葉」で関本賢太郎は長距離砲を断念。「「お前、勘違いしたらあかんで」>>)

【プロフィール】

星野伸之(ほしの・のぶゆき)

1983年、旭川工業高校からドラフト5位で阪急ブレーブスに入団。1987年にリーグ1位の6完封を記録して11勝を挙げる活躍。以降1997年まで11年連続で2桁勝利を挙げ、1995年、96年のリーグ制覇にエースとして大きく貢献。2000年にFA権を行使して阪神タイガースに移籍。通算勝利数は176勝、2000三振を奪っている。2002年に現役を引退し、2006年から09年まで阪神の二軍投手コーチを務め、2010年から17年までオリックスで投手コーチを務めた。2018年からは野球解説者などで活躍している。

◆Youtubeチャンネル「星野伸之のスローカーブチャンネル」>>

【著者プロフィール】
浜田哲男(はまだ・てつお)

千葉県出身。専修大学を卒業後、広告業界でのマーケティングプランナー・ライター業を経て独立。『ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)』の取材をはじめ、複数のスポーツ・エンタメ系メディアで企画・編集・執筆に携わる。『Sportiva(スポルティーバ)』で「野球人生を変えた名将の言動」を連載中。『カレーの世界史』(SBビジュアル新書)など幅広いジャンルでの編集協力も多数。

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