仰木彬政権下、独走するオリックスで星野伸之が常に抱いていた緊張感。「10.19」の悪夢を経て「仰木マジック」は磨かれていった (3ページ目)

  • 浜田哲男●取材・文 text by Hamada Tetsuo
  • Photo by Kyodo News

――「10.19」について、仰木監督と話をしたことはありますか?

星野 仰木さんと一番長く話をしたのが「10.19」の話題でした。その2日前の10月17日、阪急(現オリックス)と近鉄の試合が西宮球場であったのですが、阪急の先発だった僕は完投勝利を挙げたんです。すでに阪急が優勝する可能性はなかったので、「打つなら打て」という捨て身の気持ちで投げたのが功を奏したのか、(ラルフ・)ブライアントに打たれたソロ本塁打の1点に抑えることができました。

 リーグ優勝のためにほとんど後がなくなっていた近鉄からすれば、痛恨の敗戦です。その試合について、のちに仰木さんから「どんな気持ちで投げていたんだ?」と聞かれたことがあって。「ホームランでも何でも打つなら打ってくれ、と思っていました」と答えたら、「あぁ、それは勝てんわ......」という反応でしたね。確かにあの試合は、プレッシャーがまったくなかった阪急に対して、近鉄のバッターたちは傍から見てもガチガチでした。

――翌1989年はその悔しさを晴らすように、仰木監督率いる近鉄がパ・リーグを制覇しました。

星野 しかも、僕らオリックス(1989年に阪急からオリックスに球団名変更)とゲーム差なしの優勝。最後まで手に汗握る展開での優勝でしたね。仰木さんは本当にドラマがある監督でした。オリックスの監督になってから2年目(1995年)のシーズン前には、阪神・淡路大震災もあった。「こんな時に野球ができるのか?」というところから始まり、「がんばろうKOBE」が合言葉になって......仰木さんはオリックスをまとめ、リーグ優勝に導いてくれました。

 1995年はグリーンスタジアム神戸で優勝することができませんでしたが、翌年のリーグ優勝と日本一は神戸で決めることができました。1996年はリーグ優勝がかった日本ハム戦で、1点ビハインドのまま9回2死まで追い詰められたんです。「今年も神戸で優勝できないのかな......」とあきらめかけた時に、代打のD・J(ダグ・ジェニングス)がホームランを打って土壇場で追いついた。

 僕は球場のロッカーにあるテレビで試合を見ていたのですが、D・Jがホームランを打った瞬間にバーっと着替えてグラウンドに出ていったのを覚えています。最後にイチローがサヨナラヒットを打って神戸で優勝を決めるっていうのも、まさにドラマでした。

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