中日・江藤慎一は水原茂監督に土下座も許されず。仲裁に向かった張本勲には「お前、入るな」 (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 江藤自身もそうであったが、当時は貧困や生活苦から抜け出すためにプロに入ってきた選手の集団でもある。年齢とは別に、レギュラーと控えの格差や待遇、チーム内でのナチュラルランキングは歴然としていた。それゆえに若い選手が抜擢をされ出すと、今以上にベンチには大きな緊張が走ったという。

 三顧の礼をもって迎えられた水原の采配に対して、選手たちから最初に起こった不満は入団1年目の島谷金二をサードのレギュラーとして使ったことであったという。その後、トレード先の阪急でクリーンナップを打ち、通算1514安打を積み上げた島谷の活躍を見れば、この若手起用は、結果的に間違っていなかったとも言えるが、ルーキーイヤーのこの年は、428打数で107三振を喫している(打率.210)。

 島谷はそもそも社会人時代はセカンドであり、なぜ前年に11本塁打を打っている徳武定祐(旧名・定之)や地元名古屋出身の伊藤竜彦を使わないのか。水原は、島谷の堅実無比な守備を買ったわけだが、周囲には同じ高松商業の後輩を偏愛しているように映った。

 もはや53年前の出来事ではあるが、当時のベンチ内を知る選手たちを取材すると、代表するかたちで水原の采配やチーム運営に対して直接声を出して異議を唱えていたのが、リーダーの江藤慎一であったと言われている。

 チームメイトであった板東英二は、遠征先の夜間外出を咎められて、1年間の外出禁止を試合前のミーティングで水原に突きつけられたが、江藤が「やる気がなくなるので、そういう話は試合後にして下さい」と皆の気持ちを代弁して盾を突いた。これが水原との最初の衝突であったという。

 そしてかような首脳陣批判がメディアを通して表面化したのは江藤も出場した真夏のオールスターゲームの時であった。選出されなかった選手たちは名古屋に残ってチーム練習に取り組むのだが、水原がこの球宴のテレビ中継にゲスト解説者として出演するため監督不在となった。選手間には、そのことに対する不満が溢れた。

 オールスターの初戦、東京球場でレフト場外に消える本塁打を放った江藤は水原のこの番組出演を痛烈に批判した。「監督がいないなかでどうやって残ったメンバーはチーム練習をするんだ。何でテレビなんかに出るのだ」という発言がマスコミに載った。江藤にすれば、選手の気持ちの代弁であったが、体面を重んじる水原の耳にも当然入り、以降、指揮官と主砲の対立は決定的なものとなった。

 当時を知る何人かの選手や、この確執を伝える記事を総合すると、このときに慶応閥で固められたコーチ陣のほとんどが、水原と選手のリーダーである江藤の間に立って水原に具申したり、調整できるような立場にはなく、溝はますます深くなっていったという。

 水原の先輩にあたる浜崎真二(元国鉄監督)は『週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社刊)のコラムでこう書いている。「お水(水原のこと)のほうから、選手の中へ飛降りていって、オレの考えはこうなんだと、話し合えるようにならねばうそだ。(中略)コーチが新参なのだから、お水の責任はよけい重くなってくるわけだ」

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