中日・江藤慎一は水原茂監督に土下座も許されず。仲裁に向かった張本勲には「お前、入るな」 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 水原はシベリアから帰国した翌年から、巨人の監督に就いた。1950年(昭和25年)から1960年(昭和35年)まで指揮を執り、11年間で8度の優勝を飾った。1961年(昭和36年)からは東映フライヤーズに移り、ここでもチームを初優勝に導き、7年の在籍期間中、すべてAクラスという成績を残している。

 そして一年のインターバルを経て、水原は1969年(昭和44年)から中部財界の後押しによって三顧の礼をもって中日ドラゴンズの監督に就任した。

 このシーズンから、江藤の弟の省三もまた期を同じくして、巨人から移籍していた。登録名は江藤慎一が江藤兄、江藤省三が江藤弟となった。

 省三の述懐。

「大学(慶応)時代は、実力的に自分はプロではなく社会人にいくものと思っていました。特にカネボウが創立50周年で選手を集めていましたから、卒業したらカネボウに行くつもりでした。ところが、第1回ドラフトで巨人に3位で指名されたんです。ドラフトにかかっちゃうと、何か自分がすごくうまくなったような錯覚がしますからね(笑)。それでプロ入りしたわけですが、兄貴(慎一)からは3年やって芽が出なかったら、野球を辞めて俺の会社を手伝えと言われていました」

 江藤慎一は首位打者を獲得した頃から、チームメイトのジム・マーシャルからの勧めもあり、副業として自動車整備工場を経営していた。

 省三の巨人軍3年間の通算安打数は3。自身でも見切りをつけて球団に退団を申し入れた。

「これからどうするんだ?と言われたんですが、兄貴が会社を手伝えと言うので名古屋に戻りますと言って帰りました。そしたら当時、中日スタヂアムの社長だった平岩(治郎)さんが『お前、たった3年で引退はもったいない。俺が中日の代表をやっていた頃、甲子園であんなに活躍していたじゃないか』と言って球団に取り次いで契約してくれたんです」

 退団は、当初進路が拘束される任意引退であったが、巨人は無償トレードのかたちにしてくれた。

 しかし、中日で再会した兄とは気安くベンチで話ができなかった。

「当時のプロ野球というのは本当に主力と控えの選手との差がすごかったんです。権藤(博)さんや板東(英二)さん、葛城(隆雄)さんなんかは、『おお、省三、よく来た』と話しかけてくれたんですが、むしろ兄貴とは、なかなか会話ができませんでした」

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