中日・江藤慎一は水原茂監督に土下座も許されず。仲裁に向かった張本勲には「お前、入るな」 (3ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 満州のチャムスに駐屯中、ソ連軍の捕虜となった山下静夫は、自著『シベリア抑留1450日』(東京堂出版刊)のなかでラーゲリで水原に出逢った時のことをこう書いている。

「建物の一番入り口に近い二階の端に陣取った。一緒に来た、体のいかつい、私よりかなり年配の男と隣り合わせた。『よろしく。山下です』と挨拶した。『いや、こちらこそ。水原です』と返事が戻ってきた。私はその短い言葉に讃岐訛があることに気がついた。『訛りが香川県だと思うんですが、どちらでしょう』。年輩者への敬意を込めて尋ねてみた。すると、『わたしですか。高松です』と、口数の少ない返事。〈ああ、やっぱり〉(中略)そんな話の中から、この水原君がプロ野球巨人軍の水原氏ではなかろうかとふと思ったが、このシベリア生活で、そんな華やかな過去のことをひき出すのも憚られて尋ねるのを控えた」

 山下は慮ったが、やはり、この水原は巨人軍の正三塁手の水原であった。

 後に浪商野球部の監督になる中島春雄大尉は、何かと水原に便宜を図ってくれたが、捕虜に対しては、内地での名声、年齢など関係のない過酷な抑留生活であった。1948年になると、11月7日のソ連の革命記念日まで鉄道の敷設を完成させろというノルマが設定された。昼夜を徹して作業を続けて完成させると、ドラム缶一杯のウオッカがふるまわれた。そのまま帰還すると言われ、列車に乗りこんで喜んだのも束の間、再び、貨車から降ろされて、鉄道敷設の労働に駆り立てられた。またシベリアの冬を越さなければならない。何度目かの絶望が襲ってきた。

 1949年6月、水原はついに収容所の兵士から、「ダモイ(帰還)」と告げられた。7月2日、チュクシャから列車でナホトカに着いた。ここでアクチブと呼ばれるソ連共産党シンパの先鋭分子が、思想教育を行なった。アクチブの機嫌を損なうとたちまちシベリアに戻されてしまうので、収容者たちは、共産党万歳を叫び続けた。

 水原は順番を待ち、7月17日に英彦丸に乗り込んだ。船中でラジオを聞いたという乗組員から、プロ野球が復活し、川上哲治やスタルヒンが活躍している話を耳にした。水原は、まさか、と思った。戦前の職業野球は学生野球に比べて人気は低く、盛り上がっているとは、にわかには信じられなかった。船には手紙も届けられていた。その現役時代を知るはずがない岐阜の小学生からのファンレターがあった。「お父さんから、水原という名選手が帰ってくると聞きました。僕はタイガースフアンなので阪神でがんばって下さい」という文面。水原の帰還は国内でも話題になっていたのだ。

 京都の舞鶴港に帰国したのは7月20日、実に7年ぶりの祖国だった。検疫や帰国事務処理などでそこから3日を要し、さらに煩雑な手続きがあと4日ほどかかる予定であったが、迎えに来たプロ野球関係者は、7月24日に後楽園球場で行なわれる巨人対大映の試合に水原を登場させて、無事の帰還をファンに報告させたかった。

 当時は米軍統治下で、引揚者には、移動の自由もままならなかったが、巨人軍のアメリカ遠征時に対決した日系二世の選手、キャピー原田こと原田恒男が、GHQに務めており、彼が奔走して便宜を図ってくれた。水原は7月23日の夜行に乗り込み翌24日10時30分に東京駅に到着、その足で水道橋、後楽園球場に向かった。満員のスタンドが水原を驚かせた。

 かつて職業野球は、大学を卒業しても堅気の仕事に就けないものがする卑しき仕事として蔑まれ、巨人対阪神戦でさえ、2000人ほどの観客しか入っていなかった。それが、2万人は優に超える人々が集い、今、自分の帰還を祝福してくれているのだ。水原は、「水原茂、ただいま帰ってまいりました」とその一言を言うだけで胸が詰まり、それ以上は言葉にならなかった。こうして水原は日本球界に復帰した。

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