湯舟敏郎を「阪神ドライチ」の重圧から解放したのは、大阪桐蔭の高校ナンバーワンスラッガーの入団だった
1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:湯舟敏郎(前編)
プロ2年目で自身初の2ケタとなる11勝を挙げ、リーグ7位の防御率2.82。1992年の阪神が快進撃を続けていくなか、14勝でチーム勝ち頭の仲田幸司、9勝もリーグ2位の防御率を残した中込伸に次ぐ先発3番手として湯舟敏郎の存在もなくてはならないものだった。
興國高(大阪)時代は目立なかったが、奈良産業大、社会人の本田技研鈴鹿(現・Honda鈴鹿)では左腕エースとして活躍。プロ注目の投手となり、90年のドラフトで阪神に1位指名されて入団した。1年目は5勝11敗という成績だったが、いかにして2年目に成長できたのか。92年は何が変わったのか。湯舟に30年前の記憶を呼び覚ましてもらった。
入団2年目の92年、11勝をマークした湯舟敏郎この記事に関連する写真を見る
解放された「ドライチ」の重圧
「92年は入団2年目のシーズンで、気分的にラクになりましたかね。1年目は"ドライチ"のプレッシャーがありましたから。自主トレ、キャンプから1年間、むちゃくちゃ見られている感じがあって、すごく居心地が悪かったんです(笑)。それが2年目はなくなりました」
大学・社会人出身の"ドライチ"投手となれば、自ずと即戦力の期待がかかるもの。人気球団の阪神だけに、時と場所を選ぶことなく、無数のカメラが向けられる。そのカメラが、92年は地元大阪出身のドラフト1位ルーキーに向けられた。91年夏の甲子園で初優勝を果たした大阪桐蔭高の4番で、「高校ナンバーワンスラッガー」と評された萩原誠である。
高校通算58本塁打。将来の4番打者候補で三塁を守り、"ミスター・タイガース"掛布雅之の背番号31を受け継いだ。それだけに異常なまでの人気と注目が集まり、高知・安芸のキャンプは近年にない盛り上がりとなった。こうして湯舟にとって過ごしやすい野球環境になり、対人関係、対球団関係も前年より慣れているため、精神的に余裕を持てたという。
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