湯舟敏郎を「阪神ドライチ」の重圧から解放したのは、大阪桐蔭の高校ナンバーワンスラッガーの入団だった (3ページ目)

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

絶対的守護神・田村勤の存在感

 野球環境の変化、守備力の向上が、2年目の湯舟を後押ししていた。勝ち星にからむ打線の援護については「平均的に3点ぐらい得点してくれるような感じ」とのことで、まさに湯舟の92年の初登板がそうだった。4月9日の巨人戦に先発すると7回5安打1失点という内容で、打線は5回までに3得点。8回からリリーフした田村勤が2回1失点に抑え、3対2で勝利した。

「ピッチングコーチの大石(清)さんが『先発して5回2失点やったら仕事をしたよ』って、明確な数字で言ってくれていたんです。そういう意味では、僕も含めたローテの先発する人は、当然ゼロが一番いいわけなんですけど、点をとられてもなるべく5回2失点に抑えられるように、と考えていたと思いますね。ただ、それも田村さんがいてくれたから、ですね。

 もちろん、リリーフは全員がすごかったんですけど、抑えで田村さんがいることで、投げたら毎回、飛ばしていけるんですよ。その当時、田村さんは3イニングぐらい、投げはったんで。しかも、バットに当たらないですからね。球威は(藤川)球児並みでした。心強かったですし、助けられた思いしかなかったですね」

 当時は、まだ抑えは1イニング限定ではなく、セットアッパーという用語もなかった。完投は特別な出来事でなく、規定投球回に達した投手の大半が10前後の完投を記録していた。完投できなくても7回まで投げきることが先発の務めだった。そういう時代に大石コーチが「5回2失点」と提示したのは、2〜3イニングを投げる田村が安定していたからこそだろう。

 ただ湯舟自身は、幸先よく1勝目を挙げながら、波に乗れなかった。4月は2試合目の登板で黒星がつくと一時リリーフに回り、5月4日の巨人戦で先発に復帰。9回2安打2失点で完投勝ちをおさめるも調子を維持できない。一部スポーツ紙の記事には左ヒジ痛の影響が記されている。

「そのあと、3試合連続で4回持たずにKOされたんです。で、ヒジが痛いって、言い訳してますね。みんな誰しも、どこか痛いですから。邪魔くさいヤツですね(笑)。痛かったのは痛かったんでしょうけど、記者の人に言うべきことじゃない。まあ、当時、自分がポロッと言ったことを書く人と書かない人がいて、書く人には何もしゃべらなくなっていったんですけども」

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