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斎藤佑樹が回想する高校1年「野球で挫折した記憶はない。キツかったのは早実の理不尽なルール」 (2ページ目)

  • 石田雄太●文 text by Ishida Yuta
  • photo by Sankei Visual

 唯一覚えているのは、5月だったかな......長野の駒ヶ根にある施設で野球部が合宿した時、アップダウンのある1キロくらいのコースを10周させられたランニングがやたらとキツかったことくらい(笑)。結果、夏の大会を前に背番号をもらったのはうれしかったけど、背番号1ではなかったので、これは通過点だなとも思っていました。

初めての夏は4回戦敗退

 ピッチャーとして、高校に入っていろいろ変えなきゃダメだと思ったことはいくつもありました。とくに和泉(実)監督やコーチの方から指摘されたのは、体の開きが早いということです。だから開きを抑えるというのは、高1の時の僕のテーマでした。

 バッターに向かっていく際、なるべく回転のスタートを遅くさせることを意識して投げていました。今となってはスローカメラやデータから分析すると、いわゆる開きが遅いと言われるピッチャーは、足を着いてからリリースまでの時間が短い傾向にあると聞いたことがあります。だから、そこの時間を短くすることさえ意識すれば開き云々は関係ないし、今の僕は開きが遅いほうがいいとは思っていないんですけど、ただ、当時は「開いちゃいけない」と自分自身に言い聞かせながら練習していました。

 1年の夏、西東京大会は3回戦からでした。春の都大会で2位になったので、シードされていたんです。初戦の相手は都立富士森で、1年生では後藤が試合に出ました。

 初回にミスから先制されましたが、すぐに打って返して、あっという間に逆転。11−1で勝って4回戦へ進みます。次の相手は工学院大附。日大二にサヨナラで勝って勢いに乗っているという話は聞いていましたが、甲子園に行けると思っていた僕らからすれば、負けるはずのない相手でした。

 ところが、その試合で僕らは負けてしまいました。延長10回、3−4です。試合の内容は細かく覚えていないんですけど、負けて思ったのは、140キロを超える真っすぐを投げられるレベルの高いピッチャーが2人(村山航也、日野頼人)もいたのに甲子園へ行けないとなると、この先、もし僕がひとりで投げるとなったら、これはもう圧倒的なレベルにならないとダメなんだなということでした。

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