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張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」 (7ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

「慎ちゃんは、仲良くなってくると年上なのに俺のことを兄弟、兄弟と言うから。いや、自分が下なんだから、ハリと呼んで下さいよ、と言っていたんだが、『お前、菅原文太はわしより年上やのに五分の兄弟分やっとるやないか』と言われてね。まあそれならと、なったわけです」

 張本が俳優の菅原文太と近しくなったのには、親会社絡みの理由があった。東映の岡田茂会長から『仁義なき戦い』がクランク・インする前に「お前が(映画の舞台となる)広島の言葉を文太に教えてやってくれ」と頼まれたのである。自身も広島出身の岡田会長は「仁義」における笠原和夫の脚本の肝は広島弁のセリフにあると看破しており、仙台出身の菅原に身につけさせる必要性を考えていた。張本は菅原と一緒に広島や呉を訪問して、何度も方言を指導したのである。

「あとがないんじゃ、あとが」「狙われるもんより、狙うもんのほうが強いんじゃ」「そがな考えしとったら、スキができるど」「サツにチンコロしたんはおどれらか」

 これら『仁義なき戦い』の菅原の名セリフの抑揚、アクセントは張本の監修であった。

「最後のセリフの『弾はまだ残っとるがよう』は『弾はまだ残っとるけん』のほうが広島弁としては正しいんだがね。慎ちゃんも文太さんももう逝ってしまったなあ」

 張本は電話のインタビューの最後を江藤を、そして文太を偲ぶような口調で締めくくった。

 昭和40年は西沢道夫新監督の下、四国松山でのキャンプとなった。前年の勝浦でのキャンプ連載が好評であったためにこの年も江藤の筆による「キャンプ徒然草 松山日誌」が中日新聞紙上を飾った。

(つづく)

【写真・画像】江藤慎一の軌跡を写真で振り返る

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