張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」 (6ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 在日韓国人二世として、広島市の大洲で生まれた張本は、物心がつく前に父親を亡くしている。貧しい生活のなか、4歳の時にトラックに追突されて焚き火の中に飛ばされ、大やけどを負った。小指と薬指は燃えて癒着し、親指と人差し指は今でも曲がったままである。広島に原爆が投下された8月6日には爆心地から2キロの地点で被ばくする。裏手にあった比治山が熱と光をさえぎってくれたおかげで無事だったが、可愛がってくれた長姉はこの時勤労奉仕に出ており、命を落としている。

 日本語が不自由な母は、朝鮮人に対する差別も厳しいなか、東大橋の土手にあった六畳一間にトタン屋根をつけただけの家の一画でホルモン焼き屋を始め、女手ひとつで3人の子どもを育てあげてくれた。リンゴ箱をひっくり返し、布を被せてテーブルにして、そこで闇市で仕入れた内臓や同胞から分けてもらったマッコリを客に給するのである。母は1円でも安い肉を仕入れるために広島駅の裏のマーケットまで毎日1時間かけて歩いて通った。店で客から肉や酒の注文を受けると、日本の文字がわからないので、墨で壁に記しをつけてお勘定を記録していたという。

 赤貧洗う生活のなかで、母は決して韓国人の誇りを忘れるなと子どもたちに教えた。張本が東映フライヤーズ入団時に外国人選手枠の問題で(当時は、外国籍選手は2名までで在日コリアンも含まれていた)帰化を勧められたが、母は「祖国を捨てるくらいなら野球をやめろ!」と諫めた。それに感動した大川博オーナーが動いて、以降は日本の学校(=一条校)を卒業した選手は外国人の扱いとしないという協約に改正させた。張本の母が日本プロ野球界の門戸を広げる規制緩和を実現させたとも言える。張本もまた母を慕った。プロ入り3年目に後のノーベル文学賞作家大江健三郎との対談(『世界の若者たち』新潮社)のなかでこう語っている。

「まあ、僕が一番尊敬しているのは、おふくろですよね。いつも僕にそういうことをいったですからね。お前は韓国人であるし、そういうことに胸を張ってなんせよ、と」

 張本が大阪の名門浪華商で野球をやりたいと言うと、タクシーの運転手をしていた兄は1万8000円の給料から、1万円を仕送りしてくれた。そんな境遇のなかで張本は、「絶対にプロ野球に入って恩返しをする」という決意を固めて練習に励んできた。両親にラクをさせ、3人の弟を大学にやるためにノンプロ時代から仕送りを続けていた江藤と合わないはずがなかった。もちろん互いの高度なバッティング技術を認めていればこその信頼関係も大きかった。

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