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張本勲が終生の友、江藤慎一を語る。「慎ちゃんも俺も白いメシを腹いっぱい食べたいと思ってプロを目指した」 (4ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 江藤のチームに対する激烈な愛情は前年にもグラウンド上の行動として表れていた。

 昭和38年8月25日の雨中の中日球場での巨人戦である。江藤が2本のホームランを打って中日がリードするも王のアーチで6対6の同点に追いつかれた6回表1死、巨人の攻撃中にわかに雨が激しくなり、試合は中断した。守備についていた中日の選手たちが、ベンチに引き上げるなか、江藤だけはずぶぬれになりながら、レフトの守備位置から動こうとしなかった。自分が戻れば、引き分けのままコールドゲームになってしまうのではないか。すでに試合は成立しているから、自身のホームランは記録されるが、それよりもチームとして試合に勝ちたいという気持ちのほうがはるかにまさっていたのだ。無言で試合の続行を訴える江藤は実に26分間激しい雨のなかを立ち続けたのである。

 話を昭和39年に戻す。ベラ・チャスラフスカが舞い、アベベ・ビキラが甲州街道を駆け抜けたこの東京五輪イヤー、中日は17年ぶりの最下位に終わり、杉浦監督も途中解任という最悪のシーズンとなった。その大きな要因となった暗黒のキャンプの最中に江藤はそれでも粛々とリーダーとしての責務を果たしつつあった。その意識は秋に結実する。空中分解しかけたチームを牽引しようという意識は当然、プレーにも結びついた。

 この年、三冠王を狙う王貞治と競い合い、ついに打率.323で初の首位打者を獲得したのである。

 シーズン後半には両足肉離れという大きなケガを負った。しかし、入団以来の連続出場記録へのこだわりは強く、最後まで試合に出続けた。連続試合出場については、小学校時代の母の言葉が大きかった。「慎ちゃん、学校を一日も休まない皆勤賞いうんはね、成績が一番の優秀賞と同じ重みなんよ」。

 打率キープのために欠場することもなく、チームで唯一140試合出場を果たした。「逃げたらいかんのじゃ、必死にやれば神様が助けてくれるんじゃ」という言葉を木俣は聞いている。

 全試合出場の首位打者を祝う各界からの祝電が名古屋の江藤宅に山のように届いた。母はこの祝いの電報を一枚一枚整理して丁寧に保管した。それは今も江藤の長女、孝子のもとにある。

 江藤宅に届いた祝電の数々(写真提供:ぴあ) 江藤宅に届いた祝電の数々(写真提供:ぴあ)この記事に関連する写真を見る

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