斎藤佑樹の小学生時代「僕はモテませんでしたよ」。野球を始めた契機、憧れたのは松坂大輔と茂野吾郎
小学4年生だった1998年、斎藤佑樹は地元の軟式野球チームでレギュラーとして試合に出始めた。最初はサードやショートを守り、やがてピッチャーに抜擢される。
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子どもの頃からナルシスト
「生品リトルチャンピオンズ」は群馬県の太田市(当時は新田町)にあった学童野球のチームで、地元の生品小学校の児童が30人くらい、いたと思います。ボールは軟球で、僕は4年生の後半から試合で投げさせてもらいました。
僕、ずっとピッチャーをやりたかったんです。小さい頃から野球と言えばピッチャーという気持ちがありました。だから練習で初めて監督に「ちょっとピッチャーやってみろ」と言われた時はうれしかった。「オレ、ピッチャーできるんだ」って......そこからはずっと、ピッチャーをやりたいと思い続けていました。
ちょうど4年生だった年の夏、甲子園で松坂(大輔)さんがいた横浜高校が優勝したんです。それをテレビで観ていたら、松坂さんがクルッと回ってセンター方向に向かってガッツポーズしました。あれから僕が目指してきたのは、甲子園で優勝した時の松坂さんだったのかもしれません。
斎藤佑樹が小学生の時に書いた「野球ボール」という詩この記事に関連する写真を見る そういえば、小学生の時に野球について書いた詩があるんです。その詩のなかで「僕」が投球練習の「球」なんですよね。「僕は昨日、斎藤佑樹というピッチャーに投げてもらって、いつか松坂さんのようなピッチャーに投げてもらいたい」「もし佑樹くんが松坂さん以上のピッチャーになったら、僕はすごい」「でもその頃になったら僕のことなんか忘れてるだろうな」って......我ながらなかなかの表現力ですね。
文書を書くのは好きでした。子どもの頃からナルシストでもあったので(笑)、ちょっと"ポエマー"を気取っていたのかもしれません。そもそも野球をやっていること自体、カッコつけたいとか、モテたいとか、そういう理由が大きかったので......でも、僕はモテませんでしたよ。
よく「モテたでしょ」って訊かれるんですけど、何をもってモテたと言えばいいんですかね。小学生でキャーキャー言われるわけはないし、女の子からも「佑樹」って名前で呼ばれて、僕も平気で女子に話しかけて、調子に乗ってバシッと叩かれるみたいな......そんな記憶ならいくらでもありますけど、それをモテたとは言いませんよね(笑)。
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