元DeNAの医学部生、寺田光輝の突っ走る人生。好きな子を追って受験、就職内定も辞退、大学「8番手投手」からプロへ

  • 門脇 正法●取材・文 text by Kadowaki Masanori
  • 山本 雷太●写真 photo by Yamamoto Raita

文武両道の裏側 第7回
寺田光輝(東海大医学部、元横浜DeNAベイスターズ) 前編

文武両道と言うと、文の勉強と武のスポーツの両方を同時にこなしているイメージが強い。しかし、今回登場する寺田光輝は、ちょっとスタイルが違っている。「同時進行ができない」と話す寺田は、横浜DeNAベイスターズを引退後、恐るべき切り替えの早さを生かし、東海大学の医学部に通う大学生になる。現在、30歳。プロ野球経験がある日本人選手として初の医師を目指す。


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元DeNA投手で、現在は東海大学医学部に通う寺田光輝さん元DeNA投手で、現在は東海大学医学部に通う寺田光輝さんこの記事に関連する写真を見る

【「野球は難しいなって感じでした」】

 伊勢神宮で全国的に知られる三重県伊勢市。近くにはブランド牛の「松阪牛(まつさかうし)」を誇る松阪市があり、鳥羽市なども含めて一帯は一大観光地となっている。そして、この伊勢市には、ひとつの名家がある。それが、100年以上前に産婦人科医として開業した寺田家。「寺田です」と名乗れば、「あの病院の?」と聞かれるほど。

 高祖父(祖父の祖父)の代から続き、現在も父親が内科・胃腸科をしている医師の家系に生まれた寺田光輝。野球と出会ったのは小学生の時だった。

「僕の記憶では、当初サッカーをやるつもりだったんですけど、僕の部屋に、子ども用の青いグローブとボールがあって、それを持って公園で壁当てをしたのが最初だったと思います。投げた時に、なんか、我ながらいい球投げるなって(笑)。

 ただ、投げるのはよかったんですけど、父親とのキャッチボールの時に、ボールがまったく捕れなくて、顔にボールがぶつかったりして。打つのもからっきしダメでした」

 その苦手具合は、地元の少年野球チームに入ってからも変わらなかった。

「守備が怖かったです。よくボールから逃げるなって言われるじゃないですか。正面で捕れって。僕はそれが怖くてずっと嫌でした。今でも怖いです。守備が本当に苦手で、野球は難しいなっていう感じでした」

 のちに投手としてプロ野球選手になる寺田だが、地元の中学校の野球部ではチームのエースではなかった。そして、進学した三重県立伊勢高校でも野球部に所属。甲子園を目指して日々練習に励み、高校3年の春大会には地方予選の準決勝まで進出した。

「高校時代、僕ともうひとり、左のエースがいて、彼がケガをしていたのもあって安定してなかったので、僕が背番号『1』だったんです。だから、僕はまあ消去法的なエースナンバーという感じで、やっぱり強いところとやる時にはその左の彼が投げていたんですよ。春の大会の準々決勝で勝ったのも、彼が投げていた試合だったので、どちらかと言うと、準決勝まで連れてきてもらったっていうことになるのかな、と」

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