元DeNAの医学部生、寺田光輝の突っ走る人生。好きな子を追って受験、就職内定も辞退、大学「8番手投手」からプロへ (2ページ目)

  • 門脇 正法●取材・文 text by Kadowaki Masanori
  • 山本 雷太●写真 photo by Yamamoto Raita

「文武両道は手段でしかない」と考えを語った寺田さん「文武両道は手段でしかない」と考えを語った寺田さんこの記事に関連する写真を見る そのあと、甲子園出場という地元の期待を受けて臨んだ夏の地方大会では、4回戦で敗退してしまう。

「最後の負けた試合は、その彼が5回まで1点に抑えていたんですけど、肩がちょっと痛くなってきたのもあって、僕に代わったんです。でも、僕が2回ぐらいで7、8点とられて、コールド負け。僕のせいで夏が終わったようなもんなんです」

【好きな女の子を追って進路決定】

 寺田は高校時代、プロにつながるような目立った成績は残していない。もちろん、ここから高卒でドラフトへ、という話ではなく、部活を引退してからは大学進学のために本格的に勉強を開始することになる。

「その時の正直な話をすると、実は、好きな子がいて。その子は大阪の大学へいくって話してたので、じゃあ俺も大阪の大学にいくって決めたんです。その当時は高校で下から数えて20番くらいの成績だったけど、めちゃくちゃ勉強しました。

 夏休みに部活が終わった時点では、センター試験の模試で得点率が28%しかなかったんですが、なんとか75%くらい取れるまでに。その子と一緒に大学にいきたいっていう思いで、死ぬほど勉強したんです」

 しかし寺田は、大阪の大学ではなく地元の三重大学教育学部に進学することに。

「結局、その好きだった子が進路を変更して、大阪へはいかずに三重県内の学校にいくことになったんです。なので、僕も三重で探そうってなって。三重で一番いきやすい国公立大学で、かつ、野球もそこそこできる三重大学を受けました。もう、青春(アオハル)でしたよね」

 三重大学に合格してからも、野球を続けたい気持ちがあった寺田は、野球部に入った。

「正直なめていたんです。地方の国公立大学だし、余裕だろうと思っていたんです。けど、無理だということがすぐわかりました。同期や先輩のなかに野球の能力がすごく高い人がいて、球が速い人もたくさんいて、『あれ?』っていう感じになったんです。ふつうに1年生から試合に出られるような大学じゃないのって思ってたんですけど、『はー......』とため息をつくような毎日で、本当に圧倒されました」

 さらに、好きだった子との関係も変わり、寺田自身、身の振り方を現実的に考えるようになった。

「もう野球では芽がないってこの時思いました。となると、教育学部に入学したんだけど、先生になりたいわけじゃなかったので、やっぱり、ちゃんと医学部を視野に入れないといけないなと思ったんです。すごく迷ったんですけど、1回休学しようと考えて、そこからまた勉強を始めました」

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