元DeNAの医学部生、寺田光輝の突っ走る人生。好きな子を追って受験、就職内定も辞退、大学「8番手投手」からプロへ (4ページ目)

  • 門脇 正法●取材・文 text by Kadowaki Masanori
  • 山本 雷太●写真 photo by Yamamoto Raita

 ある意味、"寺田式"と呼べるような独特な勉強法の成果もあって、筑波大学へ入学する寺田だったが、野球部はそそのかした後輩が言うような甘い状況ではなかった。

「確かに、浪人中のトレーニングの効果があったみたいで、球はめっちゃよくなっていたんですよ。自分でも気づかなかったんですけど、実際に測ったら高校時代より5、6キロ速くなっていて。ただ入学したら、いいピッチャーがいっぱいいて、試合にすぐに出られるなんてことはなかったんです。そそのかした後輩に対しては、『ふざけんなよ!』って感じだったんですけど(笑)」

 とはいえ、この時の筑波大学への進学は、三重大学への復学という選択肢よりも得られるものは大きかった。

「技術とかレベルの高さとか、いろんな経験ができたので、筑波へいってなかったらプロまではいってなかったかもしれません。野球をするために入学しましたけど、心のどこかで医学への意識があったので、生理学とかは、他の科目に比べてはちょっと興味を持ってやっていた部分もありました」

【8番手ピッチャーがプロを目指す?】

 そして、寺田の人生は大学4年の秋に、また大きく動くことになる。

「この時、チームで8番手くらいのピッチャーだったと思います。初めて公式戦に出してもらったのが4年生の春だったんですけど、春はもうボコボコに打たれて信頼を失っていたんです。

 けど、秋はオープン戦の練習試合で出してもらう機会があって、その時からあんまり打たれないっていうか、点をとられなくなりました。最後のリーグ戦でも5試合くらいに投げさせてもらって、1点もとられなかったし、三振をめちゃくちゃ取れるようになっていたんですよ」

 しかし、大学で8番手のピッチャーがプロを目指すとは、ふつうでは考えられない。それは寺田にとっても同じだった。

「しょせん8番手なんで、プロなんか雲の上ですっていう感じでしたから、当然のように就職活動をして、三重の地元にある地銀(地方銀行)に内定もいたただいてました。そうしたら、その当時の先生に、『野球は? やりなよ、野球』と言われたんです。その先生は大学に入った時から、なぜかずっと僕を評価してくださってたんです。そのお言葉と、僕自身、最後のリーグ戦で結果を残せたのもあってまだできるかもっていう、その"かも"があったので、じゃやってみようか、と。内定も辞退させてもらいました」

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