闘将・江藤慎一がプロ野球選手になるまで。貧困から名将や名スカウトとの出会い

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 当時の濃人を語れる貴重な野球人が、江藤の1学年上で、同じ熊本の済々黌高校から前年に二瀬に入社していた古葉竹識である。昭和50年のシーズン途中に広島カープの監督に就任し、初の優勝に導き、以降も黄金時代に導いた名将は、選手育成のうえでその模範とした監督は、ノンプロ時代に薫陶を受けた濃人渉であったと公言して憚らなかった。2021年11月12日に逝去した古葉は生前に行なったインタビューでこんな言葉を残している。

──古葉監督にとって濃人監督の影響というのはかなり大きなものがあったのでしょうか。

「僕にはもうそれが一番にありましたね。(昭和)50年にカープで突然ジョー・ルーツ監督が辞任されて、私が後釜にすえられた時、真っ先に濃人さんに相談しました。『私はやっていけるでしょうか。プロの監督として最も大切なことは何でしょうか?』と伺ったのです」

 濃人は広島で生まれ育ち、広陵中学でセンバツ甲子園に出場している。原爆が投下されたときは30才で爆心地に近い市内・皆実町で被ばくしており、教え子の古葉との関係だけではなく、復興のシンボルとして産声をあげた市民球団のカープとは親和性が強かった。ルーツが築いた礎の上に何を足すべきか、強化予算の少ないチームにおいては初優勝に向けて何が必要なのか、教えを請うた。

「カープを率いるうえで重要なのは『それは選手をしっかり見ることだ』と言われました。『監督として大事なことは、練習から試合まで選手の振舞いや所作を見落とさないことだ。見るというのは、表に出る能力や好不調の波、それだけではない。選手の気持ちのなかまで見てやることだ。何を考えているのか、内心こそ見落とすな』と。確かに必ず練習がスタートするアップの時から、ずっと選手を見ておられました」そして、そのために古葉のトレードマークともなったベンチ内での立ち位置も実は濃人の影響であったことを吐露した。

「僕がいつもバットケースの横に立って戦況を見ていたのは、濃人さんのスタイルでした。あの場所がグラウンドのすべてを把握できるからです。ピッチャーの投げるボールも球種やコース、内野のシフト、ランナーの動き、全部わかるんです。ここで、スライダー、はい、フォークボール、それを打たれた時にうちの野手はきちっとしたスタートができているのか。見極めて起用しないといけない。試合が始まれば、フィールドの選手が打球を止めれられなかった、捕れなかったというのは誰の責任でもないんです。それはもう使った監督の責任です。

 今、プロ野球は各チーム支配下選手が70人の契約で、育成契約の選手も含めて2軍、3軍がありますよね。しかし、僕が監督の時は60人しか契約できない時代でした。カープにおいては、この60人の戦力のなかで、戦う相手5球団との比較をして、誰を使うのか、ここはもう少し補強しないといけない、このポジションの選手を育てないといかんというような分析を行なうわけです。実は濃人さんとは、ここにいい選手がおるぞ、あの穴が埋まるぞ、見に行こうと言われて一緒に見に行くことが結構あってそこで選手の見方を学ばせていただきました」

 試合の采配のみならず、濃人ゆずりのチーム編成の妙こそ古葉の真骨頂であった。まだ20代だった山本浩二、衣笠祥雄、外木場義郎、池谷公二郎、三村敏之......、古葉が濃人から伝授された選手の気持ちのなかまで観察したうえでの起用は当たり、それまで3年連続最下位だったカープのV1は達成された。その後、60人登録での戦力状態を見据え、この年に投手で入団した高橋慶彦をスイッチに転向させ、ポジションの補強として急務だったショートとして育てあげていく。

 高橋以降もポリバレントな選手の育成にぬかりなく、カープは正田耕三、山崎隆造とスイッチヒッターの系譜が続く。濃人は二瀬で預かった選手をプロとして使い勝手のよい選手として送り出したが、古葉はそれに準じるように入団後も自らの手で起用しやすい駒に染めていった。濃人は監督としてつらいことがあると富士山を見に行って心を落ち着けたが、このメンタルケアのやり方もまた古葉はそのまま踏襲している。

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