闘将・江藤慎一がプロ野球選手になるまで。貧困から名将や名スカウトとの出会い (5ページ目)

  • 木村元彦●文 text by Kimura Yukihiko
  • photo by 産経新聞社

 有酸素運動を常に取り入れたハードな練習のなか、江藤は、二瀬入団1年目は正捕手である瀬崎昌引の牙城を崩せず、ブルペン捕手のまま、シーズンを終えた。肩も負傷し、失意のなか、同僚の福沢幸雄(後に中日)と相談して一時は野球を辞めて自衛隊に入隊しようという決意さえ固めていた。

 しかし、結局濃人にはきり出せず、2年目を迎える。自信をなくしかけていたが、昭和32年5月、都市対抗予選に向けて行なわれた大阪への強化遠征試合で、ポテンシャルの高かった打棒が爆発した。泉鉄八尾、住友金属、オール鐘紡との3試合で10打数6安打。打率6割でレギュラーの座をつかむとその勢いのまま、都市対抗地区予選でも広いことで知られる大谷球場で2本のホームランを放った。本大会では、鐘化カネカロン戦で捕手としてエース村上峻介の大会史上初となる完全試合をリードし、打っては唯一の得点となるソロアーチをかけた。

 この活躍によってプロから大きな注目を浴びることとなったが、それ以前より江藤の潜在能力を見抜いていたスカウトがいた。中日ドラゴンズの柴田崎雄である。福岡県嘉穂郡碓井の在であった柴田はかつて戦時中に存在したプロ球団、西鉄軍での先輩であった濃人の指導するグラウンドをふらりと訪ねたことがあった。その時二瀬の練習を見ていた炭鉱夫たちのこんな会話を耳にした。

「あのキャッチャーは、すごう腕っぷしが強そうじゃ」「濃人さんは、どこからかよか選手ば探してきよっと、そして具合ように育てるのがうまいけん、きっとあのキャッチャーも大物になるばい」

 粗削りだが、当たれば格段の飛距離を出す。いつも大声を出して味方を鼓舞する元気のよさも頼もしい。大器の片りんがそこかしこに見える。それが19歳の江藤の第一印象だった。

 中日球団代表の平岩治郎の命で正式にスカウトに就任した柴田は当時「打てない中日」と言われていた貧打のチームの戦力補強を依頼された。その時に真っ先に思い浮かんだのが江藤だった。柴田の著作、『いい人たちばかりの中で』からその内心を引用する。

「今も昔も変わりはないが、当時の中日は選手を採用する基準を特に『打てる』という点にしぼっていた。──中略──あいつならきっとやってくれる。第一、ゼントルマン揃いだとか、お嬢さんのような上品なチームだとか皮肉をこめて批判される、よく言えばいぶし銀のような地味な、悪く言えば無気力なくすんだチームカラーに、強烈なかってない原色を加えることにもなる。体質改善の原動力として活躍するに違いないあの逞ましい、元気を絵に描いたような江藤慎一をとってやろう」

 プロ球団の選手獲得において「高卒社会人は3年間の在籍後にドラフト指名」という規約のない自由競争の時代である。2年目にあたる昭和32年の秋に柴田は濃人のもとを訪ねた。急成長を遂げた江藤のバッティングを見やりながら、「あの江藤はどうですか」と早々に切り込んだ。

「ほう、君もあれに目をつけたか」濃人は、他にも西鉄(ライオンズ)と広島から話がきていると言った。「本人の希望にそってやろうと思うが、今年はまだ駄目だ。この先の1年があいつにとって最も大切なんだ。もう1年待ってくれたら、わしがもっとプロ向きのすごい選手に育て上げるから」

 濃人は、すでに江藤にも今年はまだ辛抱せよ、あと1年鍛えてからプロに行けと通達していた。代わりに俊敏な動きを見せるショートストップを指さした。「それより、あの古葉はどうだ? あれは仕込んであるのですぐに戦力になる」

 古葉はもう完成しており、翌年カープに入団して1年目からレギュラーになっていくのだが、柴田はこの時に古葉を獲らなかったことを再三悔やんでいる。

 高校や大学を中退させてプロに入団させるという剛腕スカウトもいた時代であるが、中途半端な育成の状態でプロには出したくはない、という濃人の意向を尊重した柴田は、1年待つことを約束した。

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