「バカヤロー、こんな球を投げやがって」魔球とともに駆け抜けた安田猛の野球人生 (2ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 小倉高校(福岡)時代は真っ向勝負の本格派。練習試合では16三振を奪ったこともあり、「常にバットを折りにいっていました」と振り返った。

 1965年春のセンバツに出場。初戦でこの大会準優勝の市立和歌山商に敗れたが、2失点と好投。卒業後は早稲田大に進学したが、1年夏の合宿でヒジを痛めてストレートの勢いがガクッと落ちた。

 試行錯誤のなか、高校時代から九州で投げ合っていた山中正竹が法政大で1年から活躍する姿にヒントを得た。同じ小柄なサウスポーで、スリークォーターの山中が得意としたのがシュート。「オレもこれを投げられたら......」とスリークォーターとサイドの間にまで腕を下げ、ストレートに変わる武器としてシュートをマスターした。

「そこから左バッターに対してはシュート、右バッターに対してはスライダーが軸になりました。インコース攻めの効果は野村(克也)さんもよく言っていましたよね。『バッターの99%はインハイ、アウトローに欠点を持つ』と。アウトコースは遠いからとして、なぜインコースは嫌なのか。たしかに、捌くのが難しいけど、簡単に言えば怖いからなんです。

 たとえば、時速800キロの飛行機が飛んでいても怖くないけど、駅のホームで新幹線が近くを通過したら怖いでしょ? だから130キロそこそこのボールでも速く見えるところに投げる、速く見えるようにすることが大事。しっかり投げれば、打ち取れるのが野球なんです」

 早稲田大時代は通算4勝止まりも、社会人(大昭和製紙)へ進み大きく成長。ここで独特の超スローボールを身につけた。大学の先輩で、社会人でもチームメイトとなった捕手に「もっと遅いボールを投げてみろ」と言われ、「自分の感覚では60キロくらいのボール」が完成。それから投球の幅が広がったという。

 プロ1年目に巨人の王貞治と対戦した時に、この超スローボールを投げた。するとテレビの解説者が「(野球界の)天皇陛下にあんな球を投げるとは何事か!」と怒ったというが、「僕にとっては生きるためのボールだったんです」と言って、こう続けた。

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