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アキレス腱断裂で「一発必中の精神」へ。
門田博光は鳥肌を立てて打席で集中した (4ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Sankei Visual

 あらためて門田に、アキレス腱断裂とその後の変化について聞いた。

「あの時はベッドの上で考える時間がようさんあったからな。先生とのあのやりとりから、頭が改革されたんや。とにかく打席に入ったら、1打席に1球来るか来ないかの甘いボールを絶対に見逃したらあかん、それを逃したら終わりやと......自分のなかで逃げ道を絶ったんや。だから打席に入ったらひたすら集中して、鳥肌が立ってくるぐらいの集中力で1球を待つようになった。そら、試合が終わったら毎回ぐったりやったけど、アキレス腱がちぎれたおかげで頭が改革され、一発必中の精神ができあがったんや」

 加えて、積み重ねてきた技術面の改革があり、パ・リーグが1975年からDH制度を導入していたことも追い風となった。

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 一方で、野球人生を左右する分岐点となったアクシデントを考えると、こうも考えてしまう。もしアキレス腱断裂がなければ、その後の「打者・門田博光」はどうなっていたのだろうかと......。

「そうやな......ホームランでいえば、毎年30本前後はいっとったやろうし、ヒットに目が向いてハリさん(張本勲)の3085安打をターゲットに置いてたかもしれん。オレも(入団から)最初の7年ちょっとで1000安打を打っとるから、頭がヒットに向いてやっとったら、現役23年でええとこまでいっとったんやないか」

 このあたりの話題になると、門田はよく「ノムさん(野村克也)からもヒットを目指したら4割打てると言われとったんや」と話すことがある。

 ただ、実際の門田は1年目からホームランを求めていた。23歳でプロの世界に足を踏み入れた時から「1番(王貞治)と19番(野村克也)を追いかける、ふたりの間に割って入る」と人知れず決意。だから、ネクストから飛んでくる「そんなに振り回さんでもええんや。何回言うたらわかるんや!」という野村からの"口撃"にも、スタイルを変えることなくフルスイングを続けた。

 ただ先述したように、入団から1979年までの9年では2年目の31本塁打が最多。ホームランを求めながらも数が伸びず、もがく時期が続いた。

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