【プロ野球】「殺気」に満ちていた社会人時代の攝津正のピッチング (2ページ目)
「全力で投げるしか、抑える手段がないんですよ。すごい変化球を持っているわけじゃないし......。でも、コントロールだけは気にしながら、その気で投げたら、なんとかなるもんですよ。それも、社会人で勉強させてもらったことですね」
とにかく、黙々と投げていた社会人時代。
「自分がエースになってからは、試合では自分が投げるものと思っていました。連戦だろうが、連投だろうが、いつも自分が投げるのが当たり前。たまに他のピッチャーが先発だったりすると、『ええっ?』って感じで。でも、なんでもかんでも全力投球したらつぶれてしまうんで、テークバックを小さくしたり、無駄にエネルギーを使わないように工夫したり、自分なりに力をセーブしたり」
だからこそ「135キロ前後」だったのだ。
「投げようと思えば、140キロ後半ぐらい投げられると思いますよ。でも、攝津、攝津、また攝津なので、今は」
そんな言い方をして笑っていた。
プロの1年目から「150キロ」を投げたときにあまり驚かなかったのも、社会人の頃にそんな話を聞いていたからだ。
それまでは先発完投のために振り絞っていたエネルギーを、セットアッパーの1イニング、2イニングに凝縮したら、思いがけない『剛腕』の誕生となった。
忘れられない情景がある。
彼がJR東日本東北のエースとして投げ始めて3年が経った頃。全国の舞台でも安定した実績を積み重ね、社会人でも屈指の存在に成長してきた攝津は、その年の有力な「ドラフト候補」になっていた。
秋も深まった2006年11月21日。
東京・新高輪プリンスホテルでドラフト会議が行なわれていたまさにその日、その時間。JR東日本東北は日本選手権大会で、新日本石油ENEOSと対戦していた。京セラドーム大阪のマウンドに上がっていたのは、もちろん不動のエース・攝津だ。その日の攝津には特別な思いがあった。
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