「いつも何見てんですか」 20歳のイチローに一喝された夜 記者が振り返る取材の原点 (3ページ目)
その頃のイチローは、8月後半に右手首に死球を受けた影響で戦列離脱中。チームも遠征に出たままで、寮内の室内練習場は閑散としていた。ダメもとで、あてもなく待つこと数時間。すると自販機で何か買おうとでもしたのか、ひょっこりイチローが自室から降りてきた。
「あれ? 何してんですか」
「いや別に、どうしてるのかな、と思ったから......」
他愛もない雑談を数分。そして、こんなところで話すのも何だから、お茶でも飲みに行きますか、という流れになった。練習場や球場の外で2人きりになったのは、その時が初めてだった。
「ここのパフェで使っているのはアイスクリーム? それともソフトクリームですか?」
神戸・北野坂近くの老舗喫茶店で、イチローがウエイトレスにそんなことを尋ねていたのを思い出す。だが結局、彼がオーダーしたのは厚切りトースト。
「不思議なこと聞くんだな......」
内心でそう思ったことは覚えているが、その後、何を話したかは全然記憶にない。ただそこで、ますますイチローの人となりに興味が湧いた。その日以降、球場外で会う機会は増えていった。
もともと自分が通信社の記者になりたいと思ったのは、海外で好きなスポーツの取材をしたいという夢があったからだ。今では世界規模で多くの日本人アスリートが活躍中で、彼らを追う現地在住の日本人メディアも増えた。だが自分が記者になる少し前くらいまで、海外にスポーツ担当を駐在させているメディアは通信社くらいしかなかった。
再び野球担当に戻ったのは1998年。そして2000年の春、入社以来の念願だったアメリカ駐在を内々に命じられた。その数カ月後、オリックスがイチローのポスティング制度によるMLB挑戦を認めた。偶然にも夢だったアメリカでの取材で、最も興味深い選手に再び担当記者として付き合えることになった。
(文中敬称略)
著者プロフィール
小西慶三 (こにし・けいぞう)
1966年大阪府生まれ。関西学院大学卒業後、1991年に共同通信社入社。1994年からオリックス・ブルーウェーブ(当時)を担当し、本格的に野球記者のキャリアをスタートする。その後、西武ライオンズ担当などを経て2000年12月、米ワシントン州シアトルに転勤。2001年に全米野球記者協会(BBWAA)初の日本人会員となる。イチロー氏の現役時代はオープン戦などを含め年間平均200試合近くを現場で取材。現在もシアトルを拠点にMLB取材を続けている
フォトギャラリーを見る
3 / 3