2019.10.10

田中将大は「観る力」がケタ違い。
「勝てる」礎は中学時に築き上げた

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • photo by Okazawa Katsuro

あの時もキミはすごかった~ヤンキース・田中将大編

 いまや押しも押されもせぬニューヨーク・ヤンキースのエース格となった田中将大は、ワールドシリーズ制覇に向けて、連日激闘を繰り広げている。その田中について、アーロン・ブーン監督からのコメントを何度か見たが、「マサがいいピッチングをしてくれた」とか、「マサはいつでも試合を託せる」など、「マサ」が今の田中の呼び名のようだ。

 だが、私にとって「マサ」も「マー君」も「タナカ」もしっくりこない。私のなかでの田中将大は、いつも「マサヒロ」だ。それは田中がチームメイトや指導者からそう呼ばれていた頃に、田中と初めて出会ったからだ。

宝塚ボーイズから駒大苫小牧に進んだ田中将大は甲子園でも活躍した 中学生になった田中が、兵庫県にある硬式クラブチーム・宝塚ボーイズに入団してきたのは2001年春だった。当時、宝塚ボーイズの監督である奥村幸治の取材をしており、毎日のように練習グラウンドに通っていた。

 奥村は高校卒業後、プロを目指しながらオリックス、阪神、西武で打撃投手を務め、オリックスでは1994年にシーズン210安打を放ったイチローの打撃投手として、たびたびマスコミにも取り上げられた人物だ。

 その奥村が少年野球チームをつくり、熱心な指導を行なっていると知り、取材を重ねていたところに田中が入団してきた。

 当初はとくに気にとめていなかったが、ある日の練習を眺めていると、奥村がこう言ってきた。

「これからが楽しみです。ひょっとしたら……があるかもしれません」

 その視線の先にいたのが、まもなく中学2年になる田中だった。

 小学生の時の田中は、軟式野球チーム・昆陽里(こやのさと)タイガースに所属し、ずっと捕手。6年時には投手・坂本勇人(巨人)とバッテリーを組んでいた。

 そのチームから創設3年目の宝塚ボーイズに進んだのは、田中だけだった。練習を見学し、グラウンドの張り詰めた空気や指導者、選手たちが発する声に惹かれたと、のちに決断理由を語っていた。

 そんな田中にピッチャー挑戦の機会がめぐってきたのは中学1年の秋。「肩の強さと肩周りの筋肉の柔らかさが投手向き」という奥村の判断だった。