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大阪桐蔭「藤浪世代」の平尾奎太が語る新たな出発 「ドラフトにかからんほうがよかった」と言える人生を (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

 結果的に現役最後のシーズンとなった8年目の昨年は、公式戦での登板がわずか4試合。夏に腰を痛めたこともあったが、起用のされ方に、ベンチからの自身への評価が伝わってきた。マウンドを降りる時が、確実に近づいていた。

「社会人は試合数も少ないので、若手を育てるためには、どうしても上の選手を外していかないといけないんです。ウチのチームは新人をけっこう獲ることで知られていて、前の年は左投手を獲ってなかったんですけど、最後の年は練習参加の選手を見ていると左が多くて。 『あっ、これは左を獲る気やな』って。チームには左が4人いたので、たぶんふたり切られて、ふたり獲るなと思っていたら、そのとおりでした」

【野球を引退し社業に専念】

 予想は的中し、切られるふたりのうちのひとりに自身が入った。

「面談の時に『今年限りで』と言われるんですけど、だいたい察しはつくんです。面談の時間割の並びを見ていたら、僕らと同じくらいの歳の選手が先の時間に固まっていて。『ああ、そういうことか』って」

 少しして西谷へ電話を入れると、労いの言葉が続いた。この時のやりとりは、西谷もはっきり覚えていた。

「僕はよく『30歳まで現役でできたら大したもんや』って子どもたちに言うんです。だから平尾に、『西谷先生が言う30までできました』って言われてね。高校時代のことを思えば、ここまでやれるとは思っていなかったので、『ようやった』と伝えました。『社会人は8年です』って言うから、『お父さんは何年や?』って聞いたら、『11年です。父を超えたかったんですが......』と。それを聞いて、『父は偉大ということや』と最後に言ったのを覚えています。ここからは、きっと仕事でも頑張ってくれると思います」

 野球のない暮らしも、まもなく1年となる。現役時代のシーズン中は、朝8時から正午まで社業に就き、午後2時から練習というサイクルだった。

 今は朝からフルタイム勤務。先輩に付きながら仕事を覚え、この4月からは2つ目の部署に異動した。『四輪生産本部 生産統括部 鈴鹿製作所 完成車保証部 製品技術科』。部署名を眺めるだけで、「世界のホンダ」を実感する。

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