運命の甲子園決勝の舞台へ 背番号9の控え左腕・柏葉勝己が語る41年前の「取手二の夏」 (3ページ目)
木内幸男監督に鍛えられた取手二の選手たち photo by Okazawa Katsuroこの記事に関連する写真を見る
【練習中に打球が頭部を直撃し入院】
関東王者で迎えた1984年春の選抜。1回戦の松山商(愛媛)戦で、石田は登板を回避。柏葉は岡田のあとを受け、5回から2番手で登板すると、5イニングを無失点に抑え、8対4でチームの選抜初勝利に貢献した。
ただ、2回戦の徳島商戦を控えた練習中、打撃投手を務めた際に打球が頭部を直撃し、救急車で運ばれ入院。同戦は頭に包帯を巻いた状態でアルプスから勝利を見届けた。
「(準々決勝の)岩倉(東京)戦は、試合前に医務室で許可が下りて、ライトでスタメン出場して9回に安打を放ちましたが、3対4とあと一歩及びませんでした」
選抜を8強で終え、最後の夏を1カ月前に控えた6月。取手二は茨城にPL学園を迎え、招待試合を戦った。結果は0対13の大敗。清原にバックスクリーンへ特大の一発を浴び、桑田には1安打完封を許すなど、完膚なきまでに叩きのめされた。途中登板の柏葉も清原に2安打されるなど、散々な内容だった。
「やっぱりマウンドで投げていれば打ち取りたいという気持ちは誰もが持っていると思いますが、清原には2打席とも打たれてやっぱりすごいなと感じました。最後は投手がいなくなり、ショートの吉田が投げて、PLの選手に死球を当ててしまい救急車が来ました」
その2カ月後。柏葉はそのPLを相手に甲子園決勝の大舞台、しかも9回の優勝を左右する場面でマウンドに上がることになる。
著者プロフィール
内田勝治 (うちだ・かつはる)
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう
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