運命の甲子園決勝の舞台へ 背番号9の控え左腕・柏葉勝己が語る41年前の「取手二の夏」 (2ページ目)
【木内監督に叩き込まれた幻惑投法】
柏葉は1981年の中学3年時、夏の甲子園を戦う取手二をスタンドから応援していた。OB会のバスに同乗して車中泊、京都散策を経て、外野席から入場した。その時、眼下に広がった聖地の景色は、一生忘れることはないと語る。
「『こんなところで野球するんだ、すげぇな!』という感じでしたね。今だから対戦相手は鎮西(熊本)だったと言えますが、当時はもう甲子園に行けるという喜びのほうが大きかったですね」
その時、鎮西には1対2で敗れたが、3年後の夏に準決勝で再戦。先発マウンドに立ったのは柏葉だった。3回途中で降板も、打線が爆発して18対6と圧勝。先輩たちの雪辱を果たしている。
取手二に入学後は、左投手が希少だったということもあり、毎日のように打撃投手を務めた。対照的に、1年春からベンチ入りした石田には、エースと呼べるにふさわしい「特権」が与えられていた。
「石田は毎日打撃投手をやることはなかったです。さらに毎日新しいボールをおろして投球練習をやるんです。自分にはそれはありませんでした。毎日45分から1時間は打撃投手をやっていましたね」
柏葉の高校3年間の最速は122キロ。木内は、球速を期待できない左腕に、変幻自在の「幻惑投法」を伝授した。
「基本はオーバースローなのですが、サイドやアンダー、クイックでも投げていました。当時は巨人の角三男(現・盈男)投手がスリークオーター気味で投げて抑えていた時代でした」
打撃投手でアピールを続けた甲斐もあり、1年夏から石田とともにベンチ入り。2年春の選抜こそベンチ外も、同年秋には右翼と控え投手を兼任した。「先輩が抜けて、石田と2枚看板のようなイメージはあった」と言うが、茨城1位で出場した関東大会では、石田が全4試合完投勝利で初優勝。マウンドに上がることはなかった。
「秋の大会後に、木内さんから控え投手の自分と岡田(英治)が呼ばれて、『おまえらは選抜で登板はないから』と言われました。ただ、石田が年明けから右肩の調子が思わしくなく、何とか支えていけたらと思っていました」
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