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【高校野球】夏の甲子園唯一の勝率10割校・三池工を再び聖地へ! 母校を託されたOB監督の奮闘 (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

 閑話休題。長らく閉ざされた三池工の甲子園への扉。境さんは、部員たちに聖地の雰囲気を知ってもらおうと、今夏、甲子園見学ツアーを計画。希望者を募ったところ、わずか5名しかいなかったため、あえなく断念した。

「何かを変えないとずっと定位置(初戦敗退)だなと思い、意識を変えるために甲子園とはどういうところか、同じ高校生がプレーしている場所の雰囲気を見せたいと思ったのですが......。もちろん、お金もかかることなのでしょうがないですが、ちょっとショックでしたね」

【指導の原点は大村工での4年間】

 三池工が所在する大牟田市は、かつて三池炭鉱の発展とともに栄えた炭鉱の街だ。しかし、主要なエネルギーが石油へと転換されていくなかで、石炭産業が急速に衰退。市の人口も1959年に20万人を突破したのをピークに、今では半減の10万人まで減少した。

 境さんが在学時の1990年代後半は1クラス40人の7クラス、1学年300人近い生徒がいたが、今は4クラスで1学年160人ほど。少子化が進むにつれ、部員数も次第に減っていった。

「私たちの時代は、私学に行くような実力を持った子も県立に流れていましたが、最近はそういう子は私学一択になっている印象ですね。野球部に入る子たちも、やはり昔の方が一人ひとりの能力は高かったなと思います」

 境さんは大学を卒業後、一般企業で勤めながら、教員免許を取得。講師として最初に赴任した鳥栖工(佐賀)は、原貢さんの母校だ。

「原貢さんとつながりがあるなと思いながら、鳥栖工で4年間、そして三池工に戻って2年間講師をさせてもらいました。そして長崎県で土木課教員の採用試験を受けて合格し、大村工に赴任しました」

 副部長、部長として過ごした大村工での4年間は「私の指導の原点です」と振り返る。高比良俊作監督のモットーは「10点取られても11点を取り返す」。打力アップに重点を置いた指導を行なっていた。

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