九州国際大付・楠城祐介監督が語る波乱の野球人生 「恥ずかしくないですか?」 プロスカウトだった父に問い続けた日々 (2ページ目)
そして2014年に学生野球資格を回復すると、若生正広監督のあとを受け、同年8月、九州国際大付の監督に就任。春夏5度の甲子園に導き、2023年8月に勇退した。
そうしてバトンを譲り受けた楠城監督は、父から口酸っぱく言われていることがある。
「父には『自分の采配で勝とうと思うな』とずっと言われています。九国には能力のある選手がたくさんいるので、自分の采配に酔って邪魔をしないことを心がけています。父も自分もプロ出身ですけど、プロほど基礎を叩き込まれるというか、日々の積み重ねが全て結果に出ると思っているので、慌ててもしょうがないし、試合になったからといって、何か特別な作戦を練って勝とうとは思っていません」
【一浪の末に青山学院大へ】
楠城監督は、父の現役引退から4年後の1984年、北九州市で生を受けた。2008年の楽天入団時、野村克也監督から「おまえも足が速いのか?」と問われたことがある。父は、プロ2年目の1975年に18盗塁をマークするなど、走れる捕手だった。もちろん、ダイヤモンドを颯爽と駆け回るユニホーム姿を見たことはない。少年時代に残る父のイメージは、スカウトとして球場などへ足を運ぶ際に、パリッと着こなしたスーツ姿だった。
「当時のスカウトは、ポロシャツやジャージー姿でもよかったようですが、スーツは(当時西武の管理部長だった)根本陸夫さんが始めたそうです。スーツ姿には相手への敬意が込められています。父は身なりや、ユニホームの着こなし、ベンチ内での態度など、そういうことを大切にしています。試合でも立って指揮を執っていたので、今もコーチを含めてみんな立っていますね」
楠城少年はそんな父の背中を見ながら、将来はプロ野球選手、そしてスカウトになりたいという夢を思い描いていった。
父の母校でもある小倉に入学後は捕手として活躍。甲子園には届かなかったが、引退後は父と同じ東京六大学を目指し、中高6年間、家庭教師の下で勉強に励んだ。しかし結果は不合格。東都の大学の3月試験を受ける方向で話をすすめていたところ、父に「断ったから」と言い放たれた。
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