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九州国際大付・楠城祐介監督が語る波乱の野球人生 「恥ずかしくないですか?」 プロスカウトだった父に問い続けた日々 (3ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

「最初は『えっ?』となって、どういうことかなと思ったら、『おまえが東京六大学でやりたいという気持ちはその程度なのか。将来の人生を考えたら大したことはない1年だから、浪人しなさい』と(笑)。正直なところ、いろんな知り合いの進路のお世話をしたりしていたのに、自分の息子はしてくれないのかと思い、母にはだいぶ八つ当たりしてしまいました」

 早慶戦に憧れていた父は、早大に進学するためには伝統校の小倉へ入学するのが近道と考え、中学浪人をしてまで夢を叶えていた。さらに楠城監督は早生まれ(1月)。1年の浪人は、長い人生においてきっとプラスになる。息子の将来を見据え、いつもその成長を見守っていた。

 結局、浪人生活を選択し、当時、西武のスカウト部長を務めていた父の自宅があった埼玉・所沢市内から、高田馬場にある予備校に通いつめ猛勉強。再び東京六大学を目指すも、吉報は届かなった。しかし、東都の名門・青学大の合格を勝ち取った。さすがの父も、この時ばかりは反対しなかった。

【いつでも辞めたらいい】

 当時の青学大には精鋭が揃っていた。浪人したことで、高市俊(元ヤクルト)、円谷英俊(元巨人)、大崎雄太朗(元西武)、横川史学(元楽天、巨人)と同級生となった。この4人は大学後にプロへと進んだ。

「レベルは高かったですね。2年間はほぼ手伝いだけでした。青学の全体練習は2、3時間で終わるんですが、個人練習が本当にすごくて、こんなに練習するんだという集団でした。寮でゆっくりしているのが怖かったです」

 まずは1年間の浪人生活でなまった体を鍛え直すところからスタート。2年秋には打力を生かすため、外野にも挑戦しながら、ブルペン捕手としてベンチ入りし、代打のチャンスをもらった。

 ただ、日本大の那須野巧(元横浜、ロッテ)ら、戦国東都の好投手をわずか1打席で打ち崩すのは至難の業だ。

 ある日の試合で三振した時のこと。神宮に視察で訪れていた父に聞いたことがある。
 
「恥ずかしくないですか?」

 いつものように敬語で問い、返答を待った。父とは中学時代から今までずっと、敬語で話す。

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