【選抜高校野球】名門復活を託された横浜高・村田監督 「神奈川の県立から甲子園へ」の夢を捨て母校へ帰ってきた理由 (3ページ目)
その一方で、「県立で甲子園へ」という夢も近づいていた。迷いに迷った。それでも恩師・渡辺監督の「オマエしかいない」という声に背中を押され、県立校の教諭という立場を捨てて母校の監督に転じたのは、20年の春だった。
その頃の神奈川は、東海大相模の時代だった。11年センバツ、15年夏、21年センバツで全国制覇。対して、横浜の優勝は06年センバツまでさかのぼる。その後も甲子園には出場するものの、3回戦進出が最高成績。長く神奈川で2強を形成してきたが、村田の監督就任当時は相模の圧倒的リードと言っていい。
母校に戻った村田が愕然としたのは、在学時とすっかり様変わりしていたことだ。時代とともに変わっていくのは当然としても、自分を育ててくれた横浜野球の規律や緻密さなど、いい部分までもが薄れてしまっていた。
「今は鍛えに鍛えて、組織をしっかり確立できるようにしているところです。あの98年夏、小山(良男/元中日)さんが甲子園の開会式で宣誓したように、夢と希望と感動を与えられるチームをもう一度つくりたい」
その初年度はコロナ禍に見舞われたが、2、3年目には夏の甲子園出場を果たした。そして現チーム。全国屈指の二本柱と、旧チームから2年生キャプテンを務めた阿部葉太ら、才能豊かな野手陣を擁し、19年ぶりの頂点を目指すにふさわしいチームを育て上げた。
思い出すのは、昨年の神宮大会初日のこと。たまたま出会ったある監督が「(優勝は)横浜でしょ」と予想し、そのとおりに優勝したのだ。このセンバツも、優勝予想の大本命。
「松坂さんたちは44連勝しているので、それに近づけるように向かっていく日々です」
そう村田監督は言った。沖縄尚学との2回戦は、24日の予定。織田に示した言葉になぞらえれば、「第1章」が秋の神宮大会優勝とするなら、「第2章」のセンバツVまであと4勝だ。
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