【選抜高校野球】名門復活を託された横浜高・村田監督 「神奈川の県立から甲子園へ」の夢を捨て母校へ帰ってきた理由 (2ページ目)
04年には、福田永将(元中日)が入学して控えに甘んじたが、5月末に脳梗塞で入院した渡辺監督不在のチームを主将として統率し、夏の神奈川を制して甲子園でもベスト8。その人間力は、チームメイトが「村田がキャプテンでなければ、バラバラになっていた」と評価するほどだった。
渡辺監督も村田を高く評価し、在学中から「指導者になれ」と道を示したという。なにしろ、小学生時代に憧れた指導者の言葉である。村田は日体大に進んで教師を目指し、在学中には母校の練習を手伝うこともあったという。それでも、だ。「渡辺監督には『私は県立で勝負します』と宣言したんです」と、村田から聞いて驚いた。
【恩師に背中を押され母校の監督に就任】
神奈川では母校・横浜のほかにも東海大相模、桐光学園、慶應義塾......と強豪がひしめいている。そのひとつである横浜商は市立だから、県立校の夏の甲子園出場となると1951年の希望ヶ丘までさかのぼり、センバツでも54年の湘南と、その時点で50年以上前。今センバツの21世紀枠・横浜清陵は、県立としては71年ぶりの出場で、つまり「神奈川から県立で甲子園へ」というのはほとんどミラクルなのだ。
だが村田はあえて、そのミラクルに挑んだ。日体大を卒業すると「奇跡的に20倍という高い倍率の採用試験をパスして」、まずは県立霧が丘に赴任し、野球部長を務めた。13年に異動した白山では部長を経て監督になると、「打撃練習が終わったら帰りたがるような生徒たち」を徐々に鍛え上げ、18年夏には北神奈川大会でベスト8にまで進出している。「県立で甲子園へ」という夢に、ちょっとずつ近づいていたわけだ。
その矢先、19年のこと。母校・横浜で指導者の不祥事が発覚する。
「後任はだれがいい?」
白羽の矢が立ったのが、村田監督だった。渡辺監督に憧れ、渡辺監督が率いるチームで育ち、指導者になった。母校愛は人一倍強い。その母校が不祥事にあえいでいる。なんとかしたい。
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