検索

【選抜高校野球】東洋大姫路・岡田龍生監督が振り返る46年前の記憶「1日でも長く甲子園におるぞ」の合言葉でベスト4

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro

東洋大姫路・岡田龍生インタビュー(前編)

「1番サード岡田」

 このアナウンスを思い出すと蘇ってくる風景がある。今から半世紀近く前になる1979年(昭和54年)の選抜大会だ。いかにも負けん気が強く、抑えきれないガッツが、その表情や右打席の立ち姿から伝わってきた。

 これまで取材させてもらってきた多くの高校野球監督のなかで、高校時代のプレー姿が思い浮かぶ最も古い人が東洋大姫路(兵庫)の監督、岡田龍生であり、「1番サード岡田」、その人だ。東洋大姫路がベスト4に入ったあの春、チームを引っ張ったキャプテンでもあった。

東洋大姫路の指揮官となって初めての甲子園となる岡田龍生監督 photo by Sankei Visual東洋大姫路の指揮官となって初めての甲子園となる岡田龍生監督 photo by Sankei Visualこの記事に関連する写真を見る

【ベスト4に近畿勢が4校】

「1番サード岡田」の記憶が、なぜそれほど強く残っているのかには理由がある。

 当時の私は小学4年の野球小僧。高校野球にもいくつかの贔屓チームができ始めていた頃で、そのひとつが1977年夏に全国制覇を果たした東洋大姫路だった。その秋には、日本一の立役者となった松本正志がドラフト1位で、私が大ファンの阪急ブレーブス(現・オリックス)に入団。

 勝手な縁を感じ、東洋大姫路を応援していたところ、3季ぶりの甲子園となった1979年選抜出場のチームに岡田がいたというわけだ。

 履正社(大阪)での監督時代にも何度かあの時の春の話を聞くことはあったが、今回は母校に復帰し、あの頃と変わらないユニフォームを着ての甲子園。岡田のなかに蘇る景色があるのだろう。このタイミングで、あらためて遠い春の思い出話を聞くたくなった。

「あの選抜はなかなかないと思うんですけど、ベスト4がすべて近畿勢だったんですよ」

 なかなかどころか、97回を迎える選抜で史上唯一のケースが1979年だった。しかもその顔ぶれは、昭和の高校野球の主役を張っていたチームがズラリ。

「浪商(大阪/現・大体大浪商)、PL学園(大阪)、箕島(和歌山)、そしてウチでしたからね。ただ選手の力量は全然違っていて、ほかの3つには大学、社会人経由を含めて、プロへ行く選手がゴロゴロいたんです。浪商には牛島和彦、香川伸行のバッテリーにサードの山本昭良、下級生にも何人かいい選手がいました。PLも法政大からドラフト1位で広島に行く小早川毅彦に、阿部慶二、山中潔。箕島には石井毅、嶋田宗彦のバッテリーに、上野敬三というショートがいた。そのなかでウチだけがそんな選手がひとりもいなかった。個人の力は、ほかの3つと比べて明らかに劣っていました」

1 / 3

著者プロフィール

  • 谷上史朗

    谷上史朗 (たにがみ・しろう)

    1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。

フォトギャラリーを見る

キーワード

このページのトップに戻る