本格的に野球を始めたのは中学から 下窪陽介はいかにして鹿児島県初の甲子園優勝投手となったのか? (4ページ目)
それまでは最初から最後まで常に全力投球だったが、スローカーブでカウントを整えることで体力を温存。打者の目線も変わるので、勝負球のスライダーも有効に使うことができた。
こうして迎えた2年秋の鹿児島大会。決勝で樟南を12対1と圧倒的なスコアで下すと、九州大会では都城工(宮崎)を11対0(5回コールド)、諫早(長崎)を2対0、沖縄水産を5対0と圧巻の"3試合連続完封"。決勝の小倉東(福岡)戦は途中からの登板で2対1と九州王者に輝いた頃には「下窪陽介」の名は、九州のみならず、全国にまで知られるようになっていた。
下窪陽介(しもくぼ・ようすけ)/1979年1月21日、鹿児島県生まれ。鹿児島実業では3年春のセンバツで優勝、夏の甲子園でもベスト8進出。その後、日本大、社会人野球の日本通運を経て、2006年大学生・社会人ドラフト5位で横浜(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。入団1年目に72試合の出場で打率.277の成績を残し、その後は右の代打として活躍。2010年に退団後はサラリーマン生活を経て、現在は家業の下窪勲製茶へ入社
著者プロフィール
内田勝治 (うちだ・かつはる)
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう
甲子園を彩ったスター選手たち
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