本格的に野球を始めたのは中学から 下窪陽介はいかにして鹿児島県初の甲子園優勝投手となったのか? (3ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

 その自信が確信に変わったのは、新チーム結成直後の8月関西遠征。滝川二や育英といった兵庫県の強豪相手に勝利したことで「俺たちはやれる」という手応えをつかんだという。

 遠征の合間には夏の甲子園を観戦。柳川(福岡)の花田真人(中央大→ヤクルト)らの投球を目に焼きつけ、来年はそのマウンドで自分が躍動する姿をイメージしていた。

「初めての甲子園は鳥肌が立ちました。"来年はみんなでここに来たいね"みたいな話をしました」

【下窪陽介を変えたふたりの恩師】

 実際、そこから7カ月後の1996年センバツに選手として甲子園に戻るわけだが、その後の下窪の活躍を語るうえで、鹿実の恩師ふたりの存在は欠かすことができない。

 まずひとり目は、久保克之監督(当時/現・名誉監督)だ。今でも忘れられない言葉がある。

「相手に敬意を払いなさい」

 登板した試合で、審判の判定に不服な態度を取れば、チェンジ後にベンチ裏に呼ばれ、叱責されながらこう言われた。

「試練は超えられる奴にしか与えられない。審判がボールと言ったらボール。じゃあ、次はしっかりストライクを投げようと思いなさい」

 審判や対戦相手、そして味方にも敬意を払う。スポーツ選手として欠かせない資質の一つだが、多感な高校生の時期は、不満が顔や態度に出ることは少なくない。全国でも名将として知られた久保監督の教えは、下窪少年の腑にストンと落ち、以降は鹿実のエースらしい立ち居振る舞いを見せるようになる。

「自分を育ててくれたのは久保先生。誰にでも言っているんですけど、今までの野球人生のなかで一番尊敬している方です」

 もうひとりは、下窪が2年時から投手コーチを務めたOBの竹之内和志さんだ。のちに杉内俊哉(元ソフトバンク、巨人)らも指導し、鹿実の監督も務めた竹之内さんは、現役時代は専修大や、社会人の河合楽器でも活躍。先発完投、連戦連投が当たり前だった時代に、省エネの重要性など、投球術のいろはを教えてくれた。

「竹之内先生からは『初球にカーブを投げる時はスローカーブでいいから、ストライクを取れ』と言われて。それを覚えたら、すごく省エネになりました」

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