本格的に野球を始めたのは中学から 下窪陽介はいかにして鹿児島県初の甲子園優勝投手となったのか? (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

 やがて、上半身の力に頼る投球から、下半身を使って投げるフォームを覚え、制球力も格段にアップ。中学2年秋の新チームからはエースとして活躍し、県内外を問わず有名高校からスカウトがくる投手にまで成長した。

 そして、憧れの高校から声がかかる。定岡正二(元巨人)、内之倉隆志(元ダイエー)ら、多くのプロ野球選手を輩出し、「鹿実(かじつ)」の愛称で親しまれてきた鹿児島実業だ。

「鹿児島というと、やっぱり鹿実に憧れがあって、甲子園にいけるんじゃないかというのがありました。ほかの選択肢はなかったですね」

【自信が確信に変わった関西遠征】

 当時の鹿児島は、鹿実、鹿児島商工(鹿商工)、鹿児島商業(鹿商)の「御三家」が君臨。なかでも鹿商工は、下窪が中学3年時の1993年、福岡真一郎(九州産業大−プリンスホテル)−田村恵(元広島)の2年生バッテリーを擁して春夏連続で甲子園に出場。春にはベスト8入りするなど、県内では一歩抜きん出た存在となっていたが、初心を貫き、鹿実への進学を決めた。

 ライバルの鹿商工が「樟南」へと校名を変更した1994年。下窪は1年夏からベンチ入りを果たし、鹿児島大会決勝で対戦したが、登板することなく、3対5で敗戦。鹿商工時代を含め、3年連続で夏の甲子園に出場した樟南は、福岡・田村バッテリーの活躍で準優勝まで駆け上がるなど、鹿児島県勢初の大旗まであと一歩に迫った。

「その時は樟南が強くて、そこにどうやって勝つかということしか考えていませんでした」

 その後、新チームとなり、鹿実は1年秋の鹿児島大会を制するも、九州大会では初戦の首里(沖縄)に4対5と逆転負け、2年夏の鹿児島大会は準々決勝で鹿商に5対9と足元をすくわれた。結局、鹿商が勝ち進み、甲子園切符を手に入れた。

「ライバルは樟南なんですけど、鹿商は夏になると強いんです。春は弱いので、油断がありました」

 甲子園に一番近い高校と信じて入学した鹿実で、2年まで甲子園出場なし。チャンスはあと2回しかない。焦りはあった。が、同時に自信もあった。

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