センバツ優勝投手・下窪陽介は大学で野手転向、社会人を経てプロ入り 今は売り上げ5500万円の営業マンとなった
下窪陽介インタビュー(後編)
前編:「下窪陽介はいかにして鹿児島県初の甲子園優勝投手となったのか?」はこちら>>
鹿児島実業のエースとして1995年秋の九州王者に輝いた下窪陽介は、1996年センバツ出場に向けて、まずチーム内の争いに勝つことにこだわった。九州大会では140キロを超える直球と、宝刀のスライダーを武器に"3試合連続完封"を果たすなど、その名は全国区となったが、冬の期間、謙虚に自身を見つめ直していた。
都内の百貨店で「下窪勲製茶」の製品を販売する下窪陽介さん/写真は本人提供この記事に関連する写真を見る
【無失点記録は31回1/3でストップ】
「練習もやり残したことがないように、人よりも多く投げる、人よりも多く走るということをずっとやっていました。自分は軟式から高校に入ったので、どうやったら硬式出身の人に勝てるかということを常に考えながらやっていましたね」
3月の練習試合解禁からは、ほぼ毎日のようにダブルヘッダーや、時にはトリプルヘッダーもこなしながら、連戦に耐えられる体に仕上げていった。
そして迎えたセンバツ初戦の伊都(和歌山)戦。5安打1失点完投勝利と最高の全国デビューを果たしたが、その試合中、審判に2段モーションを注意されてしまう。その後、練習でも試したことのなかった1段モーションに切り替えたことでリズムを崩し、8回に失点。前年の九州大会から続いていた無失点記録は31回1/3でストップしてしまった。
「1段モーションだと少しバランスが崩れて、今までのリリースポイントとはまた少し違う感覚になる。体も早く開くような感じがあって、やっぱり違和感はありましたね」
2回戦の滝川二(兵庫)まで中3日。それまでの2段モーションのリズムを変えないように、左足を高く、そしてゆっくり上げる急造フォームで対応した。
ただ、滝川二は新チーム結成直後の関西遠征で勝利した相手。いいイメージを持って試合に臨めたことが大きかった。結果は2安打完封。「投手・下窪」の非凡な修正能力が、結果的に「人生におけるベストピッチ」を呼んだ。
「左足がマウンドに着いてから、しっかりとボールを前で離すということを意識しました。何よりも、自分たちがこれだけの練習をやったという自信が、試合で出ていたと思います」
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著者プロフィール
内田勝治 (うちだ・かつはる)
1979年9月10日、福岡県生まれ。東筑高校で96年夏の甲子園出場。立教大学では00年秋の東京六大学野球リーグ打撃ランク3位。スポーツニッポン新聞社でプロ野球担当記者(横浜、西武など)や整理記者を務めたのち独立。株式会社ウィンヒットを設立し、執筆業やスポーツウェブサイト運営、スポーツビジネス全般を行なう