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センバツ優勝投手・下窪陽介は大学で野手転向、社会人を経てプロ入り 今は売り上げ5500万円の営業マンとなった (2ページ目)

  • 内田勝治●文 text by Uchida Katsuharu

 その後も慣れない1段モーションで準々決勝の宇都宮工(栃木)を2対1、準決勝の岡山城東を3対2と1点差でしのぎ、そして3日連投となった決勝は、1994年優勝校の智弁和歌山との対戦となった。

【5試合553球を投げ抜き全国制覇】

 これまで甲子園のマウンドを4試合経験していても、やはり決勝の雰囲気は独特だった。

「試合が始まるまでは、今日は抑えられるかな、勝てるかなという不安がありました。疲れもあって、球の抑えも途中から効かなくなってきました」

 無理もない。3月28日の初戦から4月5日の決勝までの9日間で5試合目の先発。本調子にはほど遠かった。ただ、智弁和歌山の2年生エース・高塚信幸は2回戦から4日連投と、ともに現代では考えられないほど過酷な条件下での戦いを強いられる。

 鹿実は、先攻だったことが奏功した。1回表、敵失をきっかけに、3安打を集中して3点を先制。この援護が、下窪の投球を楽にした。

「あの3点でいけるかなと思いましたね。ヒットは打たれたけど、ポテンヒットや内野安打とかだったので。ホームランは絶対打たれないというか、脳裏になかったですね」

 1996年センバツは、春先で投高打低の傾向が強い大会を象徴するように、金属バットが本格導入された1974年夏以降で最少となる5本塁打しか生まれなかった。長打を頭から完全に消し去ることで、球の抑えが多少効かなくとも、高低を有効的に使って打者と勝負することができた。終わってみれば、7安打こそ浴びるも6対3で逃げ切り。鹿児島県勢初の甲子園優勝を果たした。

 ただ、喜びもほどほどに、表情を引き締め、ホームへと整列した。正面には、準優勝に終わり悔しがる高塚や、智弁和歌山ナインがいる。

「相手に敬意を払いなさい」

 久保克之監督の教えのとおり、最後まで鹿実のエースらしく振る舞った。553球を投げ抜いた17歳の春。下窪は野球選手としてはもちろん、人間的にも大きく成長した。

「甲子園は本当にすごい場所。相手に対しての礼儀も含めて、いろいろなものを勉強させてもらいました。感謝とか、それまでは恥ずかしかった気持ちを堂々と伝えることができました」

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