藤浪晋太郎が信頼を寄せる大阪桐蔭の元チームメイトの波瀾万丈 「センバツで4番、夏はスタンド」 (3ページ目)
「僕らは毎日がテスト、毎日試されている気分でした。『明日はノックのメンバーに入っているか』って不安で、入ったら入ったで、そこで認められないと翌日から外される。バックネット裏にあるホワイトボードに、練習メニューとそこに入るメンバーが書かれているんです。そこに名前があれば週末の練習試合に連れていってもらえる。そこでアピールできれば、次の大会でベンチ入りできるんじゃないかって。みんなホワイトボードで、自分の現在地を知り、気分が上がったり、落ち込んだり......。この先のことはまだわからないですけど、ここまで生きてきたなかで、あの頃より憂鬱な気分で過ごすことは今のところないです」
同級生に弱さは見せられず、携帯電話の使用が禁止されているため親に甘えることもできない。学校、グラウンド、寮の3つを行き来する毎日のなかで、小池が競争に勝ち、大会でベンチ入りを果たしたのは2年秋。
人生で一番練習したという夏を乗り越え、秋の大阪大会から打撃が好調。背番号が「13」から「5」に変わった近畿大会でも打ち続け、翌春のセンバツ大会出場の原動力となった。
「僕の記憶では、大阪大会と近畿大会を合わせて、たしか35打数20安打ぐらい。森(友哉)と田端と同じぐらい打って、打点もチーム1でした」
高校野球の専門誌に取り上げられ、そのままセンバツの注目選手になってもおかしくなかった。しかし、そこですんなりいかないのが小池である。
【春の4番が夏はベンチ外】
まだ寒さの厳しい2月、小池は紅白戦で藤浪のストレートを左頬に受けた。うずくまると、目の前には血で赤く染まったホームベースがあった。ただ、誰もが重傷と思った診断結果は、打撲と内出血。当時を知る同級生たちは「あれでなんともなかった小池はエグい」と話し、続けて「だから藤浪の荒れ球は昔からなんです」と口を揃える。
2週間で通常の練習メニューに復帰するも、打席では怖さが残った。踏み込めず、好調時の感覚が戻らない。3月上旬に練習試合が解禁となり実戦が増えていくが、小池の調子は上がらず、センバツ初戦の花巻東(岩手)戦はベンチスタート。ところがその試合で、再びチームにアクシデントが起きた。
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