「山内政治さんの野球は強烈で忘れられない」 壮絶な人生を送った名将のラストゲーム...宮崎裕也監督(彦根総合)が回顧 (6ページ目)
【名将の指標は甲子園じゃない】
松林君と言葉を交わす時は、何かにつけて山内さんのことが話題に上がります。亡くなってすぐにさまざまな人の尽力で「偲ぶ会」が開かれましたが、今話していることのひとつが、2回目の「偲ぶ会」を開きたいということです。
山内さんの生きざまに感銘を受けている人は多く、まずはこの会をきっかけにして今一度親睦を深め、さらに広く山内さんのことを知ってもらえたらというそんな思いがあるからです。
これは夢物語かもしれませんが、その先に、彼の姿を映画にしたいという思いもあります。野球という視点だけでなく、化学物質過敏症という難病についてもしっかりと取り上げたい。
彼の人生は病死したからハッピーエンドではなかったと言えるでしょうか。懸命に自分らしく生きようとして、死の間際には、また野球と関われるかもしれないという一筋の光が実際に見えていました。
私自身、62歳という年齢になり単に野球の指導という枠にとどまらず、人として何か意味のあることをしたい。「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という言葉がありますが、山内さんの姿から感じることは、時は移り変わっても多々あると思います。
甲子園で何勝したとか、それが名将のひとつの指標かもしれません。でもそんなんじゃないやろって、そのことを多くの人は知っているはずです。
前編<難病の妻の自殺ほう助で逮捕、教員免職後に急逝...『野球の定石』を遺した知られざる名将・山内政治の信念>を読む
【プロフィール】
山内政治 やまうち・まさはる
1959年、滋賀県彦根市生まれ。彦根東高から早稲田大に進学。1982年、早稲田大硬式野球部の新人監督を務め、東京六大学野球春季新人戦を優勝、同秋季リーグを優勝などの成績を収める。卒業後、母校を含む滋賀の3校の監督を歴任。2004年に妻・智子が化学物質過敏症を苦に自死し、その際に現場に一緒にいたことから自殺ほう助罪で逮捕される。多くの減刑嘆願署名が提出されるも、懲役2年2カ月・執行猶予3年の有罪判決を受け、教員を免職。2009年に49歳で急逝した。
宮崎裕也 みやざき・ゆうや
1961年、滋賀県大津市生まれ。彦根総合監督。比叡山高時代には、外野手として3年夏に甲子園出場しベスト8入り。中京大学を卒業後、1994年から北大津高の監督となり、2004年に夏の甲子園出場に導く。北大津では春夏6回の甲子園出場。2017年の異動に伴い、一時野球指導からは離れていたが、2020年から彦根総合の監督に就任。わずか3年で春の甲子園出場を果たした。
著者プロフィール
藤井利香 (ふじい・りか)
フリーライター。東京都出身。ラグビー専門誌の編集部を経て、独立。高校野球、プロ野球、バレーボールなどスポーツ関連の取材をする一方で、芸能人から一般人までさまざまな分野で生きる人々を多数取材。著書に指導者にスポットを当てた『監督と甲子園』シリーズ、『幻のバイブル』『小山台野球班の記録』(いずれも日刊スポーツ出版社)など。帝京高野球部名誉監督の前田三夫氏の著書『鬼軍曹の歩いた道』(ごま書房新書)では、編集・構成を担当している。
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