難病の妻の自殺ほう助で逮捕、教員免職後に急逝...『野球の定石』を遺した知られざる名将・山内政治の信念 (3ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

【自殺ほう助罪で有罪判決、教員免許も剥奪】

 2004年4月、夫人が自死。それまでの山内氏の介護は、献身的というひと言ではとても言い表せないほどのものだった。

 化学物質過敏症は患者それぞれに発症の度合いが異なり、夫人はご飯を炊いたり、ホウレンソウを茹でたりする際の、普通の人ならほぼ意識しないであろう匂いに反応し、体調不良を起こした。また、近所で騒ぐ子どもの大きな声によって感情を制御できなくなるなど、さまざまな症状を抱えていた。

 電車やタクシーにも乗れず、誰が見てもごく普通の日常生活さえも営むのは至難の業という状態。心配どころか周りには逆に煙たがられ、確かな治療法はないというあまりにむごい現実のなかで、山内氏は必死に夫人を支え続けていた。

 夫人が死を選んだこの日も、ギリギリまで思いとどまるよう説得を続けていた。でも夫人の強い思いに勝てず、自死の現場へ一緒に行ってしまう。そのことから自殺ほう助罪に問われ、事件として報道されたことによって、周囲の人々は初めて山内氏の置かれていた現状を理解したのだった。

 無情だったのは、深い調査も行なわれないままあっという間に教員免許剥奪が決まってしまったことである。

 野球が好きで、子どもが好きで、本人もこれだけは避けたいと願っていたが、多くの減刑嘆願書が化学物質過敏症の患者たちから出されたにもかかわらず、懲役2年2カ月の執行猶予付き有罪判決が下る。現実から逃避することなく全力で生きてきた人間にとって、犯罪者というレッテルはあまりに重かった。

 それからわずか5年後、山内氏は他界する。夫人の看病のさなかに自身もうつ病を発症。それでも住まいをかつて過ごした東京に移し、心機一転、再び野球とかかわれる日を夢見て必死に働いていた。将来を悲観しての結末では決してない。生きようとするなかでの死だった。

 山内氏の周りにいた人々の多くが、その生きざまに心を打たれている。自分の信念に従ってまっすぐに突き進み、一度のブレーキも踏まずに生涯を駆け抜けた男。野球の指導者というより、純粋に人としての生き方に共感するという声が圧倒的だ。

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