難病の妻の自殺ほう助で逮捕、教員免職後に急逝...『野球の定石』を遺した知られざる名将・山内政治の信念 (2ページ目)

  • 藤井利香●取材・文 text by Fujii Rika

【監督退任の背景に妻の難病】

 ただ、質の高い指導書であったにせよ、本来であればこの話は単純にいち指導者が野球理論を独自にまとめたというだけで終わっていてもおかしくなかった。ではなぜ『野球の定石』が、その後さらに多くの人の心を動かすことになったのか――。

 それは、山内氏が49歳で非業の死を遂げたことに起因する。亡くなったのは、2009年2月11日。かなりの時間を要した末に特定された死因は「腸間膜出血」だったが、それまで重ねた極度の疲労や精神的苦痛が引き金となったことは明白だった。

 高校野球で過労死? いや、山内氏が純粋に野球を追い続けることができたのは、亡くなる8年前の2001年春までだった。そこで彼は監督を辞し、野球ときっぱり縁を切っている。

 なぜか。野球のあとに彼が向き合い、闘い続けたのは、妻が病んだ「化学物質過敏症」という難病だった。タバコや柔軟剤などのほんのわずかな匂いで頭痛やめまい、吐き気などの体調不良が起こる環境病で、重症化すると日常生活にも多大な支障をきたす。

 近々では2023年8月にNHK『あさイチ』でも取り上げられており、時期を問わず誰にでもなりうる可能性があるにもかかわらず、関心を持つ人は少ないうえ、周囲の理解もされにくい病である。

 妻の難病は、山内氏を惑わせ、苦境に立たせた。

 山内氏は野球理論の構築にあたり野村克也氏らさまざまな人の文献を読みあさり、亡くなった時には傍らに150冊近くの関連本があった。

 それらをノートにまとめ、さらに自分の考えを加えて理論をつくり上げていったのだが、幾度も改定を重ねて冊子に仕上げたのは、夫人の病状の悪化に伴い監督としてグラウンドに立つ時間が徐々に限られてきたことも背景にあった。自分がいなくても練習を進められるように――そんな思いがあったのだ。

 実際、山内氏が退任する直前は、この冊子を片手に選手だけで練習したり、公式戦でも監督不在のまま戦っていた時があった。公式戦を欠席しなければならないほどの理由を選手たちはその時まったく知らず、耳を疑うほど大変な事情を抱えていたと知ったのは、退任の3年後に起きた事件がきっかけだった。

『野球の定石』は山内氏の死後、2014年に早稲田大学出版から書籍化『野球の定石』は山内氏の死後、2014年に早稲田大学出版から書籍化

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