「前田ってこんなもの?」とはもう言わせない。大阪桐蔭・前田悠伍が誓う自己採点50以下からの逆襲 (3ページ目)
── そこからどのようにして、気持ちを持ち直していったのですか?
前田 (秋の大阪大会)5回戦のあと、先輩たちと国体に行かせてもらったんです。そこで松尾さんと試合で組めるのは最後だったので、なんとか上向くきっかけをつかみたいと、下関国際戦で先発させてもらったんです。そこで少し感じが良くなって。それに準々決勝(東大阪柏原戦)の時に、センターの長澤(元)が「自分ひとりで野球やってるんじゃないから。うしろにみんなおるし」と言ってくれて。そのひと言でめっちゃラクになったというか、「自分ひとりで抱えこんでたなぁ」と気づいたんです。キャッチャーの南川(幸輝)ともしっかりコミュニケーションをとりながら、戦いが進むなかでよくなっていきました。
【秋の自己採点は50点】
── 大阪大会の決勝では、夏に続き履正社を7安打完封、13奪三振。見事な投球を見せました。
前田 ベストとは思ってないですけど、秋のなかであの試合はよかったです。
── しかし、近畿大会の初戦、2戦目が絶不調。神戸国際大付戦は4安打、3失点完投も、7回以降はストレートの力が明らかに落ち、変化球でなんとかしのぎました。。彦根総合戦も立ち上がりに3安打、押し出し2つを含む3連続四球で3失点。まさに別人の投球、ボールでした。
前田 キャプテンとしてやらなければならないということもありましたし、近畿大会を勝たないとセンバツに行けないというプレッシャーもありました。
── コンディションが万全ではなかったということは?
前田 そこも少しありました。ちょっとフォームのバランスを崩したりして、そのまま投げているうちによくない形が身についていったというのはありました。
── 決勝の報徳学園戦で完封し、神宮大会もこの調子でいくかと思ったら、そうはいかず。試合ごとに波があり、本調子ではなかったように映りました。
前田 完全に体の回転が横振りになって、フィニッシュでもほとんど体が三塁側に流れてしまって。真っすぐもシュート回転するし、コントロールも定まらない。フォームがいい時の形ではなかった。でも秋はこれでいくしかないと、そこは割り切って投げました。とくにフォークが定まっていないなかで入った神宮大会は、言葉は悪いですけど「どうやってごまかしながら投げようか」と。そこしか考えてなくて、いろんな球種を混ぜながらなんとかしのぎました。
── 秋のピッチングを100点満点で自己採点すると?
前田 もう全然......50もなかったです。
── そう思うとかなりストレスを抱えながらのピッチングだったと?
前田 間違いなくそうでした。
前田悠伍(まえだ・ゆうご)/2005年8月4日生まれ、滋賀県出身。古保利小2年時から高月野球スポーツ少年団で野球を始め、6年時にオリックスジュニアでプレー。 高月中では湖北ボーイズに所属し、1年時にカル・リプケン12歳以下世界少年野球日本代表として世界一。 大阪桐蔭高では1年秋からベンチ入り。新チームとなり主将に任命された。
【著者プロフィール】谷上史朗(たにがみ・しろう)
1969年生まれ、大阪府出身。高校時代を長崎で過ごした元球児。イベント会社勤務を経て30歳でライターに。『野球太郎』『ホームラン』(以上、廣済堂出版)などに寄稿。著書に『マー君と7つの白球物語』(ぱる出版)、『一徹 智辯和歌山 高嶋仁甲子園最多勝監督の葛藤と決断』(インプレス)。共著に『異能の球人』(日刊スポーツ出版社)ほか多数。
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