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桑田真澄、清原和博のPLに7対29。元東海大山形のエースが明かす「歴史的惨敗の真相」「KKの記憶」「脅迫状...」

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Nikkan sports,Taguchi Genki

 1985年夏の甲子園の抽選会。東海大山形に不穏な空気が漂っていた。

「やばいんじゃねぇの?」

 監督の滝公男が苦笑いをつくる。選手たちも同じような表情でその時を待っていた。そして嫌な予感は見事に的中した。東海大山形の初戦は大会7日目の第2試合、相手は桑田真澄、清原和博の"KKコンビ"を擁し、優勝候補の大本命に挙げられているPL学園に決まった。

1985年夏、東海大山形を3年ぶり2度目の甲子園へと導いた藤原安弘1985年夏、東海大山形を3年ぶり2度目の甲子園へと導いた藤原安弘この記事に関連する写真を見る「武田のバカ野郎!」

 クジを引いてしまったキャプテンの武田政治に非難が集中する。エースで4番、チームの大黒柱である藤原安弘もその野次に乗っていた。

「まさか本当に引いちゃうなんてね。最悪やった、ホンマに」

 抽選会が終わると、東洋大姫路の選手たちが声をかけてきた。兵庫県姫路市出身の藤原は、キャッチャーでキャプテンの阿山正人やセカンドの大墨弘幸ら、小学生時代から知る選手たちが多かった。

「ちょっとビビらせといてくれよ」

 威勢と冗談が入り混じったトーンで、藤原はPL学園と交流のある彼らにお願いした。本当なら自分の成長、実力を試すには最高の相手だったはずなのだが......。

山形大会で悲鳴をあげた右ヒジ

 3年生の時点で、ストレートの最速は「145キロくらいは出ていた」という。持ち球のスライダーとシュート、チェンジアップはボールに握りを変えながら、軌道を少しずつ変化させていた。当時の高校野球雑誌では、東北高校(宮城)の佐々木主浩と並ぶ東北地区の注目ピッチャーとして掲載されたこともあった。

 しかし、この抽選会の時点で藤原は145キロのストレートはおろか、投げることすら困難な状態にあった。

 最初に異変を感じたのは、山形大会準々決勝の酒田南戦だった。スライダーを投げた瞬間、「プチッ」という音とともに、「これはやばい」と直感した。試合は6対3で勝利し、準決勝の羽黒工戦ではスライダーを封印し、ストレートとシュート主体のピッチングが奏功して11対3で勝利。決勝進出を決めたが、藤原には終始不安がつきまとっていた。

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