桑田真澄、清原和博のPLに7対29。元東海大山形のエースが明かす「歴史的惨敗の真相」「KKの記憶」「脅迫状...」 (4ページ目)

  • 田口元義●文 text by Taguchi Genki
  • photo by Nikkan sports,Taguchi Genki

 試合は7対29という歴史的惨敗。"戦犯"の扱いを受けることになった藤原は、試合後、チームには帯同せず病院に向かい右ヒジの治療を行なった。ひどい炎症だった患部は剥離骨折していて、右腕はギプスで覆われた。

「山形に戻ったらなに言われんのかな? 監督とチームに申し訳ない......ずっとそんなことばかり思うてました」

 藤原が懸念したとおり、東海大山形の戦いは大失態のように扱われ、県議会で無責任に議題に挙げられたという。

「なぜ山形の高校野球はこんなに弱いのか?」

 野球部の寮にはこんな手紙も送られてきた。

<藤原を殺すのに刃物はいらない。セーフティバント3本で十分>

 要するに「藤原なんて打たなくても倒せる」といった趣旨の嘲笑や罵倒が大多数だった。ほかにも学校や寮へのいたずら電話もかなりあったという。しかし当時は、藤原本人の耳には入ってこなかった。

「気を遣ってくれてたんでしょうね。チームメイトも学校の友だちも先生も、みんな普通に接してくれました。自分になんも害が及ばないようにしてくれたと思いますね」

 あの惨敗以来、しばらくうしろ指をさされていると感じたこともあった。それでも藤原が野球を辞めなかったのは、恩師のあの思いが心の支えとしてあったからだ。

 負け犬にはさせたくなかった──。

高校卒業後は野手としてプレー

 高校を卒業後、川崎製鉄神戸に進んだ藤原は内野手に転向した。全国大会の都市対抗野球と日本選手権にも出場し、11年間プレーした。現役を引退後は1年間、社業に従事して退職。家業を継ぐために3年間、理容専門学校に通い資格を取得し、現在は兵庫県内にある『バーバーショップ・エース』の店主として忙しい日々を過ごす。

 気さくな関西弁に、年下であってもついついため口になってしまうほど客も乗せられる。カットが終わり、客が会計前にトイレを借りる。用を済ませると、それまでため口だった口調が敬語に変わっているという。

「マスター、甲子園に出たことあるんですね」

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