甲子園のヒーロー吉永健太朗はなぜプロに進めなかったのか。「いろいろと手を加えてしまったのがいけなかった」 (3ページ目)
一般人には想像のできない風景を目の当たりし体感したことが不屈の源泉となった。
1年後、リハビリを終えた吉永さんは復帰を果たす。あらためて投手一本で勝負することを誓い、地方大会など公式戦でマウンドに上がった。本来の姿とは言えないものの、驚くべきことにマックス144キロまで球威を取り戻した。
だが、その年(2019年)の暮に、吉永さんはチームから勇退を言い渡された。いわゆる引退勧告である。
「所属3年を超えると、どの選手にも勇退の可能性が出てくるので覚悟はしていました。だから悔いのないようにプレーしようって。ただ実際、勇退を言い渡された時の喪失感は大きかったです。野球しかやってこなかったので、野球人生が終わってどこに向かっていくのか、まったくイメージが湧きませんでした」
当然だ。野球がすべての人生であり、現実を受け入れるのはあまりにも無念だった。だが、前に進むためには割りきることも必要だ。しばらく経つと吉永さんは冷静に自分自身を見つめることができたという。
「実際、自分の体のことは自分が一番よくわかっていて、これからさらに状態が上がるかと言われたら、もう限界かもと多少なりとも感じてはいたんです。それに子どもが生まれるタイミングでしたし、もう自分ひとりだけの人生ではないと思い、これからは社会人として働いていこうという考えに至りました」
現在、JR東日本の駅員として働き一児の父親の吉永さん(写真=JR東日本提供)この記事に関連する写真を見る
球児たちに伝えたいこと
高校時代に強烈な光を放ちながらも、幾度も行方を阻まれ、ついには夢見たプロの世界にはたどり着くことはできなかった。だが、この決断に後悔はないと吉永さんは言った。
野球をする多くの子どもたちが甲子園やプロを夢見ているが、自身の経験や反省からなにかアドバイスできることはあるだろうか。
「僕はフォームでずっと悩んできました。今はSNSや動画で情報が溢れていますが、まずは細かいことにとらわれず、全力でやることを意識してもらいたいですね。なにかうまくいかないからと、すぐ調べて、小手先で修正しようとすると結局いい方向には転びません。それが僕は痛いほど理解した、一番伝えたいところです。僕と同じような思いをする人が少しでも減ってくれたらいいなと思います」
よくも悪くもたくさんの経験ができた野球人生。今は勝負の世界から離れ、やりがいのある仕事に就き、家族と過ごす幸せな時間を享受している。
最後に、「なにかやりたいこと、夢見ていることはありますか?」と尋ねると、吉永さんはしばし考え微笑みながら言った。
「これは親のエゴかもしれませんが、できることなら子どもにとっていい経験ができるものを提供してあげたいなと思っています。えっ、野球ですか? まだ2歳ですからわからないですけど、もちろん本人がやりたいと言ってくれたら、いいアドバイスはできると思いますよ。楽しみにしています」
どうやら吉永さんの夢は、途絶えることなくまだ可能性を残しているようだ。立場を変えて、いつかあの大舞台へーー。
(終わり)
【プロフィール】
吉永健太朗 よしなが・けんたろう
1993年、東京都生まれ。2011年「第93回全国高等学校野球選手権大会」に日大三高のエース投手として出場し、優勝。その後、早稲田大、JR東日本で野球を続け、2019年に引退。現在は、JR東日本社員として駅員業務を担っている。
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