「プロ野球選手→高校監督」の先駆者・大越基の信念。「甲子園出場=いい指導者という考えはない」 (5ページ目)

  • 井上幸太●文・写真 text & photo by Inoue Kota

 指導者資格が復帰した2009年から野球部のスタッフとなり、新チームが発足した秋から監督に。いよいよ指導者としての船出となったが、前途は多難だった。

「最初のほうは自分も強い言葉が多くなってしまっていた。プロの世界が基準になっているから、『なんでできないんだ!』と言ってしまったり。選手は『俺たちはおまえじゃないんだ』という思いが募って、どんどん監督と選手の歯車が合わなくなる。この時は『自分が引っ張って甲子園に連れて行く!』と思い込んでいましたし、とにかく心が荒れていたと思います。選手目線に立つ、選手のレベルに合わせて段階的に指導する感覚は、元プロだからこそ必要だとも今は強く思いますね」

 同い年でともにダイエーでプレーしていた鳥越裕介(現・ロッテ二軍監督)や田之上慶三郎(現・ソフトバンク二軍投手コーチ)に年末に会うたびに「おまえ......、相当戦ってるな」と口を揃えたように言われるなど、神経をすり減らしながら指導現場に立ち続けていた。

 苦しい日々の先に、甲子園は待っていた。2011年秋の中国大会で4強入りし、中国地方の3校目として2012年春のセンバツに選出された。同校にとって春は初出場、夏を含めても1967年以来の聖地出場だった。

 選手時代を含めて23年ぶり、監督として初めての甲子園を経験し、いよいよ上昇気流に乗る......。周囲はそう期待していたが、大越自身の考えは異なっていた。

「対戦相手が智辯学園(奈良)。チーム力を比較すると、15点差、20点差つけられてもおかしくない。地元に帰って罵声を浴びせられるんじゃないか。ネガティブだらけでしたね。そういうことばっかり考えてしまって、戦術どころじゃなかった。相手エースの青山大紀くん(元・オリックス)は絶対打てないと思っていたし、ウチのエースは故障で投げられない。投手陣の様子を見ていた野手陣も『おいおい、これ大丈夫か』という空気が流れていました」

 聖地初采配を前にしながら、チームはどん底とも言える状態。そこに救いの手を差し伸べたのが、仙台育英時代の恩師である竹田利秋だった。

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