ハンカチ世代で「MLBに最も近かった男」。挫折を経て歩む指導者の道 (2ページ目)

  • 高木遊●文 text by Takagi Yu
  • photo by Takagi Yu

「いま思えば(期待されることは)ありがたいことだったのですが、注目をプレッシャーに感じてしまったんです。苦しかった記憶しかありません。今となっては『何をそんなに深く考えてしまったのか』と思うのですが、『変なピッチングはできない』とか、周りの目ばかり気にしてしまって......」

 今までにない眩いスポットライトを浴びて、村松は自らを見失ってしまった。天竜中学の軟式野球部時代は静岡県大会にも出られず、光星学院(現・八戸学院光星)では、"背番号7"の2番手投手。3年春のセンバツで甲子園出場を果たしたが、3安打を放った坂本勇人(現・巨人)らと比べると地味な存在だった。

 それが3年夏の青森大会決勝戦で敗れてから毎日のように練習に励むと、ボールにかつてない指のかかりを覚えた。すると、大学入学まもない1年春に153キロをマークした村松は、チームの開幕投手を任され、そこからわずか3カ月で日米大学野球の最高殊勲選手まで急スピードで駆け上がっていった。

 それゆえ、反動も大きかった。心と体の歯車が噛み合わず、故障も重なり、フォームを崩してしまった。

 4年秋にチームは創部初となる全国大会出場を決めたが、村松はベンチ外。学生野球の最後を応援席で終えることになった。

 村松にとって、最後のリーグ戦勝利となったのが3年春の青山学院大戦だ。この時は人目もはばからず号泣した。

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