斎藤佑樹らを育てたアマ球界の巨匠が、8年ぶりに現場復帰を決めた理由
「正直ね、もうユニフォームはいいかなって思っていたんですよ」
練習前に降っていた雨が上がり、土の匂いが立ち込めるグラウンドの片隅で、應武篤良(おうたけ・あつよし)が、ゆっくりと語り始めた。
名門復活を託され、今年8月に母校・崇徳の監督に就任した應武篤良氏(写真左) 今夏の広島大会準々決勝の翌日、大きなニュースが飛び込んできた。新チームから崇徳(広島)の指揮を應武が執るという内容だった。
春夏合わせて5度の甲子園出場を誇り、1976年春のセンバツでの優勝経験も持つ強豪校として知られている崇徳だが、1993年春を最後に甲子園からは遠ざかっている。
そんな背景もあり、「近年の活躍」と聞いたときに、同じく強豪として知られる軟式野球部が、2014年の全国大会準決勝で中京(岐阜/現・中京学院中京)と繰り広げた「延長50回の激闘」を思い浮かべる人も多いかもしれない。
1976年のセンバツ優勝メンバーである應武は、早稲田大、新日本製鐵広畑でプレーし、現役時代は名捕手として鳴らした。現役引退後は新日本製鐵君津(現・新日鐵住金かずさマジック)、早稲田大で監督を務め、両チームともに全国大会へと導いた。
采配だけでなく、新日本製鐵君津時代は森慎二(元西武)、松中信彦(元ソフトバンク)、渡辺俊介(元ロッテ)らを、早稲田大時代は斎藤佑樹(日本ハム)、大石達也(西武)、福井優也(広島)の3名を2010年ドラフト1位でプロに送り出すなど、選手育成にも定評のある野球人だ。
早稲田大の監督を退任した後は、「自分の経験が少しでも人の役に立てば」と講演活動中心の日々を過ごしていた。その間もさまざまな高校、大学からオファーがあったが、應武がユニフォームに袖を通すことはなかった。
「とにかく早稲田の監督として過ごした6年間の重圧がすごくて。両肩にひとりずつ人が乗っているんじゃないか、というくらいのプレッシャーでした。幸い、監督として最後の大会となる2010年の神宮大会で優勝できた。あれで精も根も、さらに言えば運も使い果たしました」
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