斎藤佑樹らを育てたアマ球界の巨匠が、
8年ぶりに現場復帰を決めた理由 (2ページ目)
本人の言葉を借りれば「気力を使い果たした」状態。そんな状態で監督をしても結果は出ない。その思いもあり、指導者に戻る気にはならなかった。
指導とも距離を置く生活を送っていたが、監督退任から約1年半が経過した2012年に、崇徳のOB会長に就任する。
「最後の夏の甲子園出場が1976年。私が高校3年の時でした。それからは2度センバツに出場しているものの、夏は出場できていない。OBとしては寂しいし、誤解を恐れずに言えば、『何をやっているんだ』と憤る気持ちもありました。それで、当時の甲子園メンバーが中心となって、学校側に提言するようになったんです」
1976年当時の主将で、OB会副会長を務める山崎隆造(元広島)とともに、野球部強化について、学校と議論を重ねるようになった。その日々が続いたある日、学校側から「甲子園優勝メンバーを中心にチームを運営するのが一番いいと思うんです」と打診を受ける。
「じゃあ、監督はどうするんですか、と聞いたら『應武さん、あなたです』と。『え!? オレがやるの?』という感じですよね(苦笑)。まさかOB会長本人がやるのかよって」
先述の理由もあり、現場復帰へ抵抗を示していた應武だったが、決め手となったのは「母校」であることだった。
「いくつかの高校から監督就任のお話をいただいたこともありましたが、自分の出身でない学校、歴史や理念の理解が不十分な場所で監督をしても、結果を残すことはできないとお断りしていました。『もう監督は十分、お腹いっぱい』と思っていましたけど、同時に『もう一度やるとしたら母校』とも考えていました。再びユニフォームに袖を通すなら自分の出身校しかないと」
こうして監督就任となり、学校の夏季休暇期間にあたる8月から指導にあたっている。
「年齢も年齢なので、選手たちはもう孫みたいな感覚なんですよねえ。何というか"擦れて"ないんだよね、この子たちは」
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