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最後の夏へ。PL学園が球界に遺した81人のプロ選手と功績 (3ページ目)

  • 谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro
  • 岡沢克郎●写真 photo by Okazawa Katsuro

 また、強さを支えた強固なスカウティング活動も、近年の強豪私学の手本となった。1960年代中盤、強豪校の階段を上り始めたPL野球部は、教団関係者のネットワークを生かし、特にPL教団発祥の地でもある九州から多くの有能な中学生が集まった。

 その後、地方出身者の数は減っていったが、「甲子園に近い学校」と認知されてからは、人材の宝庫である関西地区で徹底したスカウティング活動を展開。入学後は技術面で基礎・基本を徹底し、精神面は厳しい上下関係で磨かれていった。

 PL野球の真髄は「当たり前のことを当たり前にやる」ところにあった。グラウンド内外での様々なプレッシャーのなかで、基本プレーの精度を極限まで上げる。要するに、基礎練習を徹底的に繰り返し、ひとつひとつの動きを体に覚えこませていった。

 戦い方についてもそうだ。

「ランナーが出たら送って、センター前」

 かつてPLとしのぎを削ったライバル校の監督に「PLの戦い方」について聞くと、真っ先に返ってきた言葉がこれだった。まさに、基本を徹底するPLの野球を象徴するフレーズだ。

 基本を大切にする一方で、試合では緻密な戦いを実践していた。かつてPLで監督を務めていた山本(旧姓・鶴岡)泰氏は、「サインは144通り」と言う。

「この打者、この場面、このカウントで出す可能性のあるサインは、3つか4つ。そこがわかるようになるのかどうかが大事なんです」

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