92年阪神の快進撃に不可欠だった守護神・田村勤。ケガで無念の離脱も「投手人生のなかでいちばん輝けた」

  • 高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki
  • photo by Sankei Visual

1992年の猛虎伝〜阪神タイガース"史上最驚"の2位
証言者:田村勤(後編)

前編:首脳陣の交代要請を無視した田村勤の記事はこちら>>

 1992年の阪神快進撃に不可欠だった守護神・田村勤。プロ1年目の91年から50試合に登板して3勝4セーブを挙げたなか、チームの方針で夏から抑えの「練習」を始めていた。大石清投手コーチの指導の下、先発の頭数は揃いつつあったが、リリーフ陣は脆弱だった。

 当時の抑えは、1イニング限定ではなく、8回の走者がいる場面で登坂することも頻繁にあった。ゆえに実戦で「練習」し、経験を積む必要があったのだが、では、2年目に向けてどう取り組んだのか。「たむじい」の愛称で呼ばれ、同僚に可愛がられる存在でもあった田村に聞く。

入団2年目の92年、阪神の絶対的守護神となった田村勤入団2年目の92年、阪神の絶対的守護神となった田村勤この記事に関連する写真を見る

守護神として無双状態

「抑えをやるにあたっては、落ちる球がほしかったんです。変化球はスプリットとスライダー。下手すると2球種ぐらいでしたから(笑)。なんとか、シンカーを覚えようとしたんです。1年目から大石さんにいろいろ教わって、時折、投げましたけど、なかなか落ちなかったですね」

 課題は残ったが、いきなり故障した1年目と違い、2年目のキャンプは順調だった。50試合で59回2/3を投げた影響もなく、疲れも取り除けていたという。

「ただ、1年目は『初回から肩をつくる』ということをずっとブルペンでやってたんです。だからなんとなく、ヒジがもうひとつだな、というのは感じていました。それが2年目は抑えになったので、試合の後半に準備することになって。『ラクだな』と思いました」

 92年の田村の初登板は開幕2試合目のヤクルト戦。3対3の同点で迎えた9回裏から登板すると、連打での一死一、二塁のピンチをしのぐ。10回表に味方打線が3点を奪って勝ち越すと、その裏は三者凡退に打ちとって初勝利を挙げた。

 その後、4月の田村は中込伸、湯舟敏郎、仲田幸司、猪俣隆が先発した6試合でセーブを挙げて勝ち星をつけ、なかでも猪俣は3勝。そのうち4試合で2イニングを投げている。同年の先発陣が好スタートをきるには欠かせない働きぶりで、失敗は一度もなかった。

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